多面性

 ふとしたきっかけが幾重かに連なって、去年の暮れあたりから海外の友人とZOOMやらメールやらで連絡を取り合う機会が増えた。それぞれ、パリ、NY、トロントに在住しているのだけど、どの都市もコロナ禍によってロックダウンか、それに近い状態(一部外出禁止令等)が敷かれている。日々明らかになる感染者数が日本のそれとは比べものにならないこともあるとは思うけれど、話を聞くとやはり生活するにあたってかなりのストレスを感じているような印象を受ける。
 皆、家にいる時間が増えて、身近な他者とのインパーソンでの交流機会が減っていることから、日本に住む私とのオンライン交流が始まったのだとすると、それは互いにとって一つの機会として喜ぶべきことではあるのかもしれない。数年ぶりに言葉を交わすきっかけを、コロナ禍が作ったのだとも言える。

 交流の中でナショナリティの異なる3人の友人が、口を合わせるようにして全く同じことを私に問いかけてきた。
 「日本(東京)は大丈夫なのか!?」
 その言葉は、自分の住んでいる国と同様に日本のことを心配しているという意味合いではなく、どちらかと言えば日本が感染拡大に備えて行なっている対策(あるいはコロナ感染症に対する日本人の考え方そのもの)に対して否定的な意が含まれているように私には思えた。
 その意見に対しては、私も彼らと同じような考えを持っていたので「決して大丈夫だとは言えないと思う。」といったような返事をしたことを憶えている。

 私個人は年明けの緊急事態宣言が敷かれてすぐに、週二回開催していたアトリエとクラスは閉じ、2月に行われる予定だった沖縄での上演は中止の判断をした。しかしながら、都内で開かれている多くのダンスクラスやWS、様々な公演等も変わらぬまま開催されている。何故か。その理由は簡単で政府(行政)からの制限がかかっていないからだ。そこに強制力が掛かっていなければ開く。この図式は当然のことと言えば当然なのだけれど、開催の責任の所在あるいはその行動の真意といったところは、政府や行政に回されるか、おそらくは有耶無耶にされるだけなのだろうと思う。
 もちろん、開催することを否定するわけではないし、誰もが皆適当に考えて開催しているのではないことも知っている。自らの判断と責任によって行動している人もいる。
 ただ、単に制限されていないからという理由で、無分別に行動している人もいるのだということは疑いようのない事実である。

 どちらにせよ、止めるのか、進めるのかは、個人の責任においてのみ、その判断に委ねられるべきなのだと思う。政府や行政が負うべき責任の範囲がどこまでであるのか、現在のこの国のアナウンスには提示されていない。これは私見だけれど、提示するつもりもないのだろう。国が責任を取らないのであれば、責任は個人に委ねられるのが道理なのではなかろうか。
 信頼を置けない政府であるのならば、何故その施策を信頼するのか、私には理解できない。

 海外から届く友人の言葉が、物事の多面性を明らかにしてくれているように思う。
 果たして、この国は世界からどのように見られているのだろう。