基礎

日によって、初夏の陽気が訪れるようになりました。
昼間はTシャツ一枚で外出できるような気温になったりもして、Tシャツにジーンズとスニーカーという軽装好きの私としては、ぼちぼち心踊る季節になってきました。

しばらく更新を休んでいましたが、その間に「からだアトリエ」に加えて「ベーシッククラス」が開講しました。
アトリエは主に表現を軸としたクラスで、基本的にはあるタスクを参加者自身がどう動くか、どう描いてゆくか、といった個人の自由な表現から、自身のスタイルを構築してゆく方法論を実践しているのですが、ベーシッククラスは文字通り基礎訓練を軸としています。
踊る基礎というものをどのように捉えるかは千差万別の考え方があると思いますが、私の考えるところでは「自らの基礎を創る行為」と言ったところでしょうか。基礎を創るために基礎がある。という何だか分かりづらい言い回しとなってしまうのですが、実際にそうなのだから仕方ありません。

基礎というものは、与えられるものではないからです。

特に自分のからだを道具として扱うダンサーにとって、自らのからだを主観的に捉えてゆくことは、本人にしか出来ない。客観的に捉えることは、基礎的な考え方を伝えるために存在する、所謂、講師によっても可能ではあるけれど、踊るその人のからだを、別の人が主観的に捉えることは不可能です。あなたの頬を叩いて、私がその痛みを感じることが出来ないのと同様に。
そして、自身のからだを主観的に捉え、さらにはそこに自ら客観性を加えてゆくことで、その人のからだの中で基礎は少しずつ、自然に組み立てられてゆく訳です。
それが、自分が表現のための道具でありながら、その道具を扱う者になるということなのかも知れません。

基礎とは何か。

常にそこに立ち返る行動そのものが、基礎と言えるのではないでしょうか。
そしてそれは、継続的な反復によってのみ成されるものであるのです。

 

 

景色

ゴールデンウイーク。改元の10連休もぼちぼち終わりますね。
私にとっては連休ということもなく、ほぼいつもと変わらない毎日ではありますが、街に出てみると休日の装いの人たちが多いので、なんとなく大型連休感を味わったりしています。意味もなく駅前のベンチに座って行き交う人を眺めたりとか、用もないのに出かけてみたりとか。

まあ、それも、いつもとあまり変わらないか。。。

そんな中、昨日は連休にも休まず、毎週金曜日の「からだアトリエ」でした。
ずっと継続して行ってきた、からだの末端から動くというワークも少しずつ発展し、両手足の4つの末端を動きの発端として捉えてゆくところまで来ました。そろそろ身体内距離の意識から、身体外へ意識の距離を伸ばして行こうかなといったところです。これは、末端の意識とはまた別の「意識の内と外」と言う、踊るにあたって重要な感覚形成のワークとなって行きます。でも、昨日のワークは「末端の延長として捉えるべき動きの造形」といった流れで行いました。(※造形については、いずれまた別の機会に書きたいと思います。)

実存としての自分というものはもちろん、その身体が存在する範囲にある訳ですが、踊りとしての自分の動きというものは、常に身体の外側に存在しているとも言えます。自身の身体の外側に対して、その身をアプローチしなければ、身体はその場所に留まり、動かない。すなわち静止した状態となるからです。もちろん、静止している状態をもって踊りとするという解釈も可能ではありますが、その状態のみではおそらく「踊りきる」ことは出来ないのではないかとも思います。

身体の外側にある空間、数秒後、あるいは一瞬先の未来に対して、身体をアプローチすることで人の身体は動き始める訳です。その身体の数センチ外側を、そして数秒先の未来をも、自らのものとすることが、あるいは踊りと言えるのかも知れません。
踊るという状況においては、「自らの存在」というものは、実存する身体そのもののことではなく、その外側も含まれてくるということになる。

そうなると、自分自身と、自分以外の区別が、少しずつ薄れてくる。

私という強い実存をその身に伴いながらも、私という存在が消えるという状態。その、感覚。両極に立つことで、それを一体とするかのように。
有りながらにして、無い。
踊ることによって、そこにまで至ることが出来ればと思う。

休日の駅前でベンチに座る私は、そのような状態に近い存在となって、あるいは景色の一部となって、その場に置かれているのかも知れません。

多感

本日で平成という時代は終わる。

「時代が変わる」という感覚は元号が変わるだけでもたらされるものでもないが「時代が終わる」という感覚は元号によってもたらされる。
変化というものは知らず知らずのうちにやってくるが、終焉は瞬間で決定づけられるということか。

私自身は昭和生まれで、常々「自分は昭和の人間だよなあ」と思ってきたのだけれど、改めて考えると昭和よりも平成の方が生きている年数は長くなっていました。非常に簡単に分類すると、幼少から青年期(多感な時期)を昭和に生きて、それ以降、大人になる(成人する)あたりからこれまでを平成に生きて来たことになる訳です。

平成の方が長く生きている訳だけれど、それでも自分を昭和の人間だと感じるのは、やはり多感な時期(多感な時期というだけでは、なんだか言葉足らずのような気がする。個人としての生き方がまだ確固としておらず、故に多くの事を吸収すべく揺れ動き、さらに興味を引く事柄から大いに影響を受け、目まぐるしく変化する時期とでも言いましょうか。)を、その時代に過ごしたことに起因しているのかも知れない。

平成になり、私は成人して、大人と言われる部類に属し、現在にまで至り、では、多感な時期は過ぎたのか?という疑問もあるにはあるのですが、個人としての生き方というものには一つ確固たるものを得てはいるので、まあ、その多感な時期というものは過ぎたのだということになるのかも知れません。

しかし、その時期を過ぎても、やはり私は多感であることに変わりはない。
今現在も、揺れ動くし、影響を受けるし、変化している。そして、それを承知した上で、それを続けている。
それも、生きているのだから、仕方のないことなのだけれどね。
まさしく、このような考えかたそのものが「昭和だよなあ」と思う訳です。

兎に角。
平成という時代はあと数時間で終わり、令和という時代が始まる。
次の時代も、ずっと、多感に生きていきたいものです。
自らの感覚によって、さらに広い世界へ向けて。

新しい時代になることだし、何か新たなことを始めようかな。

余白

それほど大きな予定がある訳でもなく、仕事でスケジュールが詰まっている訳でもないのに、何故だか分からないけれど忙しいことってありませんか?
この数日、私はそのような日々でした。思い返して手帳を眺めて見ると、細々したことで結構埋められていて、勿論その細々したことの中には遊ぶことも含まれているのだけど、忙しい訳じゃないのに忙しいじゃないか!となる。

忙しさが仕事だけでなく、それ以外の事柄で多く占められているのは、日々充実している証拠でもあるかも知れません。

まあ、何を言っても、ブログ更新を怠っていた理由にはなりませんが。。。

上記細々した予定の中で、先週友人が監督する映画を観に行きました。結論から先に言うとすごく楽しめて、とてもいい時間を過ごしたなあと思って、その日一日を気持ち良く過ごせた訳です。
何が面白かったかということを、ここにつらつらと書くつもりはありませんが、ただ、その作品には余白が描かれていたのが、とても心地よかったのです。

作品を観る時に私自身が何を求めているかと言うと、おそらく「この作品が私に何を想像させてくれるのか」という事になるのかも知れません。全てが整理されて整然と語られていたり、説明過多だったり、作品の中だけで勝手に完結されてしまっていたりすると、逆に私はどこか消化不良になってしまいます。それよりも「あれ?これって一体何なの?」というシーンがあったり「どうしてこうなってしまうんだろう。」という結末であったり、劇場を出た後もずーっとその事を考えて、その根拠となるものを色々と想像するのが好きなのです。
一本の作品を観た時に、劇場でその価値が終わるのではなく、その価値がずーっと後を引くものとも言えるかも知れません。その価値が長く続くと、やはり、得した気分になる(笑)。

と、言う訳で(自分がその立場に立つこともありますが)実はアフタートークと言うものがあまり好きではない。
せっかく、イメージの余白に浸れるなあと思っていた作品なのに、終わった直後にその余白部分の説明をされてしまったりするからです。「あのシーンは実はこれこれこうだったんですよ。」とか答えを提示されると、私は想像する楽しみを取られてしまう訳です。
まあ、全てのトークがそうであるとは言いませんが、特に楽しめた作品を観た後にトークがあると「どうしようかなあ、トーク聞くのやめた方がいいかもなあ」と躊躇してしまう。トークそのものが嫌だという訳ではなく、トークによって余白を埋められるのが面白くないだけなのですが。
時には逆にトークを聞くことで、さらにイメージの余白が広がる時もあって、そんな時はとても得した気分になるのだけど、まあ、あまりそのようなトークは多くはないようです。。。私自身もそちらの立場に立つ時には、そこは一番注意しているところでもあります。余白を壊さないように、塗りつぶしてしまわぬように。

観た人が、イメージで遊ぶための、余白を残しておく。あるいは、その余白をしっかりと創る。

これは具象ではなく、抽象にしか叶わない表現領域なのかも知れません。
やがてその余白は、観た人が自分なりに細々としたことを描いて行き、埋められてゆく訳です。
まるで、忙しくもないのに、細々としたことで埋められた手帳のように。

充実の人生を送るために、余白を。

 

蠢き

春眠暁を覚えず。

時折、すごく眠くなります。春だから。
そんな時、すっと眠れる状況に自分がいたら、逆らわずに眠らせてやろうと思います。春だから。
眠れるような状況ではなかったら、まあ、我慢するしかないよね。瞼に目玉を描く訳にもいかないし。
でも、眠気が来たら1分程度うたた寝するだけでも、その後の脳の明晰さは、眠らなかった時と比べて遥かに増していますよ。
うたた寝、お試しあれ。

さて、さっきうたた寝したから、頭脳明晰。

昨日のアトリエは新しい受講者がお二人。二人とも既にコンテンポラリーダンスのクリエーションに関わっているダンサーでもありました。そして、二人の出演している作品を私は観ていたので、人を繋げてくれたその作品と作者に感謝したいなと思いました。

そういった出来事を大事にしたいものです。

昨日もひたすらに「末端の私」から動きを検証。実は末端の方が、中心よりも踊る身体に確実に影響している。そしてその発見は、やはり「中心と末端」というアンチノミー的な考えを崩して行く。同時にバランスと重心の捉え方そのものを再考させるものとなる。
以前、本ブログにも書いたけれど、中心は全ての末端によって構成されているとも言えるし、本来は、からだは中心と末端に切り離されることのない「一つの物」なのだと改めて感じる。

時として、大きな体全てを右足の中指一本が支えることだってあるのだ。

これまでは、手の指から始まる動きの検証をしてきたのだけど、昨日から足の指や踵から始まる動きにも内容を進めてみました。
全身を「動く一つの物」として捉えるために、細部からジワジワと蠢きだす感じがしています。継続して参加している人は、確実に変化してきている。

ここからが、とても楽しみなところなのです。

理解

理解とは何か。

ウィキペディアによれば「物事の道理を悟り、知ること。」また「意味をのみこむこと。」(自分以外の人の)気持ちや立場をわかること。
とある。

芸術作品と言われるものを創る行為とは、それがどのような形態であったとしても、作品を介して作家と受け手(鑑賞者や読者等)が間接的にコミュニケーションを図ることだと思うのだけれど、そのコミュニケーションの行き着く先にあるものは、必ずしも「理解」出来るものであるとは限らない。
あるいは、全くもって理解不能、意味不明という結果が待っていることも多いのではないだろうか。

コンタンポラリーダンスがよく「分からない」と言われることがあるけれど、それは言語の違いに似ているのかも知れない。
例えば、私は日本人で日本語はよく分かっている(つもりだ)。それが英語となると、まあ、日常会話の基本的なところまでは、なんとか分かる(かも知れない)。さらにドイツ語やイタリア語、フランス語などになると、1から10までを数えたり、自己紹介位までなら話せるだろうし、聞き取ることも出来る(筈だ)。

しかし、タイ語になったら、あるいはアラビア語になったら、ほとんど何も分からない。

おそらく、私は突然ひとりぼっちでアラビア語圏に放り出されたら、手も足も出ないだろうし、なす術もないだろう。でも、なんとかするしかない。なんとか生きるしかない。そして、大きな間違いや、恐ろしい経験や、歯痒い思いなどを繰り返しながら、そこに何ヶ月か居たら、あるいは何とかなっているのではないかとも思う。
それは、その何ヶ月かの間に、ほんの少しだけ何かが「分かる」からだろう。そして何年かしたら、アラビア語を理解しているのかも知れない。

言葉の通じない人と「理解」し合うことは、不可能ではない。
当たり前のことかも知れないけれど、相手の表情や身振り手振りを見れば、その人がその時どのような心理状態なのか、どのような感情を抱いているのかは、ある程度は分かる。
大切なのは「分かろうとする意思」なのかも知れない。

「分からない」と言って、そこで「分かろう」とすることを諦めたら、人間に未来はない。
私はやはり「分かりたい」と思うし、それと同じだけ「分かって欲しい」と思っている。
本来、それは別々にあるものではなく、同一のものであるのだけれど。
その「分かりたい」と「分かって欲しい」が同一となり、さらにそれが成し得た時こそが「理解」の瞬間なのではないかと思う。

 上記の文章を「理解出来た」人、いつかどこかで会って、話しましょう。
「理解出来なかった」人、それは私の「伝えようとする意思」が、まだまだ不足しているのです。精進します。

末端

暖かい一日。
いよいよ春本番といったところでしょうか。
オーバーコートを着ることにもそろそろ飽きてきたし、軽装へと変化するのは何となく脱皮するような感じがするので、何かしら新たな気分になるのかも知れません。
実際、新たな命が芽吹き、生まれる季節でもある。春。

本日も19時から、金曜日アトリエクラス

「からだを末端から動かす」ということを3月から続けている。
末端から動くというワークを繰り返し行うことによって、明確に行き着きたいところはあるのだけれど、その為にはやはり時間がかかるものです。
行き着くべきところは意識にあるのですが。

動くからだの感覚というものは、実際のところ動いている時に正確に捉えるのは難しいことではあるのだけど、例えば動かしている指先の質感を丁寧に少しづつからだの中心へと伝播させて行くことで、それが可能となるような道筋が立ってくる。
そして動いているからだの感覚を捉えるということから、踊るための意識を如何にコントロールするかと言ったところまで行き着ければと。。。

こういった内容は、ブログを読んでもよく分からないかも知れないけれど。あるいはクラスに参加している人には、ある程度理解してもらえるかも知れない。

指先は「私の末端」ではなく、「末端の私」だ。
その「末端の私」の感覚を開き、刺激してあげれば、それらはしっかりと応えてくれる。その反応を捉えることこそが、踊る意識のコントロールへと繋がっているのだと。そう思います。

先週と今週の参加者皆の踊る姿を眺めていると、彼らで一つ作品を起こしてみたいなと思えてくる。
からだに、ひたむきに向かう人の姿は、やはり美しいのだ。