獲得

 花粉が激しく飛散しているようで、目の痒みとくしゃみが突発的にやってくる日が続いている。中学、高校生の頃は、今よりずっと症状が重くて、この季節になるといつも鼻にティッシュを突っ込んでいた。と言っても過言ではない。春になると花粉症のために集中力を失い、勉強もせずに音楽ばかり聞いていた。今思えば、まあ、それはそれで楽しかったのだけど。
 その頃に比べると、現在は花粉症の症状はほとんどなくなったのだけれど、それでも時折思い出したように目が痒み、鼻が垂れてくる。何度か鼻を擤んで放っておくと、症状は治るのだけど、その突発性が逆に私にとっては苦痛ともなる。なぜかは分からないけれど。

 とはいえ、春が近づいているのだ。
 鼻を擤みながら、ゆっくりと待つこととしよう。

 前回のブログで「自己家畜化」について少し触れたのだけど、それに纏わることとして色々と考えることが多い。最初からそれに纏わることとして考えているのではなく、別の事柄を考えていくうちに、無意識にそれに紐づけて考えてしまっているだけなのかもしれないけれども。
 例えば「与えられる」ことについて。
 「与えられる」という出来事とは、どういった状況を指しているのか。世の中には仕事をしている人が沢山いる(ほとんどの人が仕事をしている)けれど、その仕事は「与えられた」ものか、それとも自ら「獲得した(生み出した・作り出した)」ものなのか。そんなのどっちだって構わないよ。おれはただ生きるために仕事をしているんだ。という人もいるかも知れない。もちろんその考え方を否定する余地は全くない。皆、生きるために、仕事をしている。のだと、思います。でも、働かなくったって生きていける人もいると言えば、いる。話は少し外れたけれど、例えば、大学を卒業して、企業に就職した人というのは、その仕事を「獲得した」と捉えているのだろうか。あるいは企業側から仕事を「与えられている」と考えることはないのだろうか。
 私は就職というものをせずに生きてきたので、その真意というものに到達することはできない。しかし、自分の行なっている活動に置き換えて考えると、どうにも自分が「与えられる」という立場に立つことを避けているような気がするのです。極力「与えられる」ことから逃れて、なんとしてもそれを「獲得」しにゆくのだという、私自身の中の決まりごとのようなものが、存在しているのではないかと。
 「与えられる」ことと「獲得する」ことというのは、単純に意思のありかたの違いのみで明確に変化するものです。簡単に言い換えるならば、一つの目的や物事、出来事に対して「受動的」であるか「能動的」であるかの違いだけなのです。もっと簡単に説明すると、樹上にりんごが生っていて、そのりんごが食べたいと思った時に、風が吹いて落ちてくるまで待つのか、あるいは樹の幹を蹴っ飛ばしたり、揺すったりして落とそうとするのか。という違い。目的は「りんごが食べたい」という同じところにあるわけだけど「受動的」と「能動的」とで、行動は全く異なってくる。
 この話はもちろん、どちらが良いとか悪いということを言いたいのではないのですが、ただ「与えられる」ことに慣れてしまっているとか「与えられる」ことに無意識になっているのだとしたら、それは少し問題があるかもしれないと考えるのです。それは、ちょっと、怖いことだと思う。

 香港やタイ、ミャンマーなどで民主化運動が盛んに行われているけれど、彼らは民主主義を能動的に「獲得」しようとしている。それは民主主義の正しいあり方だと思う。
 その一方で、私たちは民主主義という一国のイデオロギーすらも、戦後米国によって「与えられた」ものであるのだということに気がついているだろうか。「与えられる」ことに慣れ過ぎて「獲得する」ことを忘れてしまっているのだとすれば、それはそのまま、現在日本のあり方を物語っているのではないだろうか。

 そのような事を、痒む目を擦り、鼻を擤みながら、ぼんやりとした思考で考えている。
 春待ちの日々。