発揚

 2020年9月に東京で上演されたM-laboratoryの新作「DAWNORDUSK」が3月末に仙台で再演されるにあたって、昨年暮れからリハーサルが続いている。年が明けて、東京に緊急事態宣言が発令されたことによって、少なからずリハの進行は影響を受けているけれど、それでも「ここ」の「今」というものを言葉と身体によって体現する試みは初演よりもさらに深層へ降り立ちつつあると思う。当たり前のことだけれども、昨年の9月というのは既に過去として在り、現在は常に更新され続けているわけである。そうである以上「今」と「ここ」というものを身体で語るために、作品も同様に更新されてゆくことになる。

 初演のリハーサルは昨年の3月末より開始された。本来ならば作品は6月に沖縄で、7月に仙台で上演されて、9月の東京公演がツアー最終地となるはずだった。それが一連の情勢変動によって、沖縄・仙台ともに延期となり、9月の東京公演が初演となったわけだ。
 そのように「DAWNORDUSK」のクリエーションは半年で終わるはずであったのだけれど、状況の変化が生み出した結果として、まる一年かけて創作に向かい続けるということになった。それは、ある意味においては、コロナ禍が生み出した状況の産物であると言えるのかもしれない。作り手にとっては、時間をかけて深く作品を考察するために与えられた、格好の機会となっている。
 コロナ禍によって立ち現れた現在というものには、悪い側面だけではなく、良い側面もある。時間感覚の変容であるとか、不可視の可視化であるとか、思考の変革であるとか。それらの事柄については、今後、時間をかけて考察していきたいと思う。

 長い時間をかけて更新されてゆくことで、作品は初演とは大きく異なる表情を生み出している。もちろん初演終了後に得られた、鑑賞者との対話によるレスポンスが、現在の身体や作品に生じさせている変化も大きいけれど、それ以上に作品を取り巻く、この世界の価値観の変化というものがやはり最も大きく作用しているのではないかなと思う。
 価値観の変化というものは、通常、劇的に変化することはそう多くはなく、ゆっくりと緩慢に、体感できない位の速度で変化してゆくことが多い。変化に頓着することなく日々を過ごすことこそが、日常を安定させるからだ。それが、俗に言う「変わらぬ日常」というものだ。しかし、(コロナ禍における)現在の日常はその「安定性という価値」自体が欠如してしまっている状態であると言っていい。そのような体感のもとでは、価値観というものは広義の意味において激変する可能性が高い。

 そういった状況の中では、もちろん変化に柔軟に対応する必要はあるけれど、変化に対応するという受動行動だけにとどまらず、自発的に変化を生み出してゆくという能動行動が必要となってくる。単に変化を待つのではなく、自ら自発的に変化してゆく力、あるいは自らが状況を変化させてゆくという意思の発揚。
 そして、それら意思と力に基づいた、実行性を伴った活動が必要となるのではないだろうか。

 カタストロフは既に起きた。
 価値は変わる。