余白

それほど大きな予定がある訳でもなく、仕事でスケジュールが詰まっている訳でもないのに、何故だか分からないけれど忙しいことってありませんか?
この数日、私はそのような日々でした。思い返して手帳を眺めて見ると、細々したことで結構埋められていて、勿論その細々したことの中には遊ぶことも含まれているのだけど、忙しい訳じゃないのに忙しいじゃないか!となる。

忙しさが仕事だけでなく、それ以外の事柄で多く占められているのは、日々充実している証拠でもあるかも知れません。

まあ、何を言っても、ブログ更新を怠っていた理由にはなりませんが。。。

上記細々した予定の中で、先週友人が監督する映画を観に行きました。結論から先に言うとすごく楽しめて、とてもいい時間を過ごしたなあと思って、その日一日を気持ち良く過ごせた訳です。
何が面白かったかということを、ここにつらつらと書くつもりはありませんが、ただ、その作品には余白が描かれていたのが、とても心地よかったのです。

作品を観る時に私自身が何を求めているかと言うと、おそらく「この作品が私に何を想像させてくれるのか」という事になるのかも知れません。全てが整理されて整然と語られていたり、説明過多だったり、作品の中だけで勝手に完結されてしまっていたりすると、逆に私はどこか消化不良になってしまいます。それよりも「あれ?これって一体何なの?」というシーンがあったり「どうしてこうなってしまうんだろう。」という結末であったり、劇場を出た後もずーっとその事を考えて、その根拠となるものを色々と想像するのが好きなのです。
一本の作品を観た時に、劇場でその価値が終わるのではなく、その価値がずーっと後を引くものとも言えるかも知れません。その価値が長く続くと、やはり、得した気分になる(笑)。

と、言う訳で(自分がその立場に立つこともありますが)実はアフタートークと言うものがあまり好きではない。
せっかく、イメージの余白に浸れるなあと思っていた作品なのに、終わった直後にその余白部分の説明をされてしまったりするからです。「あのシーンは実はこれこれこうだったんですよ。」とか答えを提示されると、私は想像する楽しみを取られてしまう訳です。
まあ、全てのトークがそうであるとは言いませんが、特に楽しめた作品を観た後にトークがあると「どうしようかなあ、トーク聞くのやめた方がいいかもなあ」と躊躇してしまう。トークそのものが嫌だという訳ではなく、トークによって余白を埋められるのが面白くないだけなのですが。
時には逆にトークを聞くことで、さらにイメージの余白が広がる時もあって、そんな時はとても得した気分になるのだけど、まあ、あまりそのようなトークは多くはないようです。。。私自身もそちらの立場に立つ時には、そこは一番注意しているところでもあります。余白を壊さないように、塗りつぶしてしまわぬように。

観た人が、イメージで遊ぶための、余白を残しておく。あるいは、その余白をしっかりと創る。

これは具象ではなく、抽象にしか叶わない表現領域なのかも知れません。
やがてその余白は、観た人が自分なりに細々としたことを描いて行き、埋められてゆく訳です。
まるで、忙しくもないのに、細々としたことで埋められた手帳のように。

充実の人生を送るために、余白を。