理解

理解とは何か。

ウィキペディアによれば「物事の道理を悟り、知ること。」また「意味をのみこむこと。」(自分以外の人の)気持ちや立場をわかること。
とある。

芸術作品と言われるものを創る行為とは、それがどのような形態であったとしても、作品を介して作家と受け手(鑑賞者や読者等)が間接的にコミュニケーションを図ることだと思うのだけれど、そのコミュニケーションの行き着く先にあるものは、必ずしも「理解」出来るものであるとは限らない。
あるいは、全くもって理解不能、意味不明という結果が待っていることも多いのではないだろうか。

コンタンポラリーダンスがよく「分からない」と言われることがあるけれど、それは言語の違いに似ているのかも知れない。
例えば、私は日本人で日本語はよく分かっている(つもりだ)。それが英語となると、まあ、日常会話の基本的なところまでは、なんとか分かる(かも知れない)。さらにドイツ語やイタリア語、フランス語などになると、1から10までを数えたり、自己紹介位までなら話せるだろうし、聞き取ることも出来る(筈だ)。

しかし、タイ語になったら、あるいはアラビア語になったら、ほとんど何も分からない。

おそらく、私は突然ひとりぼっちでアラビア語圏に放り出されたら、手も足も出ないだろうし、なす術もないだろう。でも、なんとかするしかない。なんとか生きるしかない。そして、大きな間違いや、恐ろしい経験や、歯痒い思いなどを繰り返しながら、そこに何ヶ月か居たら、あるいは何とかなっているのではないかとも思う。
それは、その何ヶ月かの間に、ほんの少しだけ何かが「分かる」からだろう。そして何年かしたら、アラビア語を理解しているのかも知れない。

言葉の通じない人と「理解」し合うことは、不可能ではない。
当たり前のことかも知れないけれど、相手の表情や身振り手振りを見れば、その人がその時どのような心理状態なのか、どのような感情を抱いているのかは、ある程度は分かる。
大切なのは「分かろうとする意思」なのかも知れない。

「分からない」と言って、そこで「分かろう」とすることを諦めたら、人間に未来はない。
私はやはり「分かりたい」と思うし、それと同じだけ「分かって欲しい」と思っている。
本来、それは別々にあるものではなく、同一のものであるのだけれど。
その「分かりたい」と「分かって欲しい」が同一となり、さらにそれが成し得た時こそが「理解」の瞬間なのではないかと思う。

 上記の文章を「理解出来た」人、いつかどこかで会って、話しましょう。
「理解出来なかった」人、それは私の「伝えようとする意思」が、まだまだ不足しているのです。精進します。