多感

本日で平成という時代は終わる。

「時代が変わる」という感覚は元号が変わるだけでもたらされるものでもないが「時代が終わる」という感覚は元号によってもたらされる。
変化というものは知らず知らずのうちにやってくるが、終焉は瞬間で決定づけられるということか。

私自身は昭和生まれで、常々「自分は昭和の人間だよなあ」と思ってきたのだけれど、改めて考えると昭和よりも平成の方が生きている年数は長くなっていました。非常に簡単に分類すると、幼少から青年期(多感な時期)を昭和に生きて、それ以降、大人になる(成人する)あたりからこれまでを平成に生きて来たことになる訳です。

平成の方が長く生きている訳だけれど、それでも自分を昭和の人間だと感じるのは、やはり多感な時期(多感な時期というだけでは、なんだか言葉足らずのような気がする。個人としての生き方がまだ確固としておらず、故に多くの事を吸収すべく揺れ動き、さらに興味を引く事柄から大いに影響を受け、目まぐるしく変化する時期とでも言いましょうか。)を、その時代に過ごしたことに起因しているのかも知れない。

平成になり、私は成人して、大人と言われる部類に属し、現在にまで至り、では、多感な時期は過ぎたのか?という疑問もあるにはあるのですが、個人としての生き方というものには一つ確固たるものを得てはいるので、まあ、その多感な時期というものは過ぎたのだということになるのかも知れません。

しかし、その時期を過ぎても、やはり私は多感であることに変わりはない。
今現在も、揺れ動くし、影響を受けるし、変化している。そして、それを承知した上で、それを続けている。
それも、生きているのだから、仕方のないことなのだけれどね。
まさしく、このような考えかたそのものが「昭和だよなあ」と思う訳です。

兎に角。
平成という時代はあと数時間で終わり、令和という時代が始まる。
次の時代も、ずっと、多感に生きていきたいものです。
自らの感覚によって、さらに広い世界へ向けて。

新しい時代になることだし、何か新たなことを始めようかな。