物質

 長い時間、動物の骨格標本を眺めていると、目の前に物として存在している骨が、私のからだの内側に隠蔽されている私自身の骨と共鳴するような感覚を起こす。それはどうにも不思議な感覚なのだけど、私自身もまた沈黙とともに眼前に屹立する骨と同様、物であるということに気づかされることになる。物言わぬ、物としての骨は、そのように音もなく語りあっている。

 本格的に創作活動に携わるようになってから30年余りが経過したが、現在の地点から眺める私の創作というものは、その多くが物質としてのからだに対しての叛逆であったように思う。その時期その時期において、それは感情的になって表出することもあったし、記号的になることや世俗的になることもあった。時には心象に傾いたり、現象に振り切ったりもした。今になって思うことは、それら自身への叛逆的な表現行為は、そのまま自身からの逃避行為であったに過ぎないのではないかと思う。

 しかしながら、私の中に現在も変わらぬまま居座っている創作の核とは、やはり物質的であると言っていいと思う。誤解を恐れずに言うのならば「からだは物である。」ということを実証することが、私の創作を支えているのかもしれない。
 ただ、画家が絵筆を握ってキャンバスという物に向き合うように、音楽家が自らのからだで楽器と向き合うように、私は自分の唯一の所有物であるからだに向き合いながら(あるいは他者のからだと向き合いながら)また、その物に宿る意識という時空と向き合いながら、現在の生を描こうと試みているだけなのだろう。
 それは、既に多くの先人たちによって為されてきたことではあるけれど、それでも私は同じ轍を踏んでゆくつもりだ。

 物質は常に語りかけてくる。それは人間の言葉の範疇を大きく超えた語りかけとなって、私のからだに届く。からだの内側に隠蔽された私の物質部分に。
 私はその語りかけにのみ、耳をむけようと思う。