狭間

 最近、美術館によく行く。
 東京には大きな美術館が沢山あって、そこかしこで気になる作家の展覧会が行われているから、美術の観覧欲は枯れることなく、常に満たされる。小さなギャラリーを含むとそれはもう、天文学的な数字になるのではないか。。。そんなことはないか。
 観に行った美術展によっては図録等も買ってしまうので、入場料と合わせるとそれなりの出費となり、後になって青ざめることも多いのですが、手元に置いておきたい図録はどうしても購入してしまう。寄稿されている文章や、作家へのインタビューなどを読むのも面白いのだけど、やはり、展示されている作品を観て受けた衝撃や印象感覚のようなものを、図録に収録されている同じ作品の写真を眺めることで、自宅にいながらにして再現させることが出来るのが楽しくてたまらない。
 他者の作品を観て楽しむというのは、その作品を観て自分のからだに起こってくる感覚の現象のようなものを楽しむことなのかも知れない。だとしたら、人は常に自分のからだを楽しんでいるのだろうと思う。

 自分のからだを楽しむ。

 それは踊ることと一緒だ。

 そんなこんなで、私自身の創作においても、美術的な要素がむくむくと膨らんできている。
 さて、どのように現れるのだろうか。

 前回の記事の最後に、予告のように記した「物質とイメージの狭間でバランスをとる」ということ。
 人のからだの中には、その人独自のイメージというものがあって(それは言語的なものであったり、視覚的なものであったり、聴覚的なものであったり、触覚的なものであったり、、、要するに言語や感覚によるものなのですが)そのからだの中のイメージというものには、まだ形もなく、器も与えられておらず、混沌として、有機的な状態なのだけど、それを物質化することで、イメージは形を纏い、あるいは器に入った状態になる。その、物質化された状態というのが、言語(文字)であったり、絵画や立体、画像、映像であったり、楽譜であったり、ダンスであったりする。
 文字や楽譜や一部の絵画は紙という素材にインク等で物質化されるということ。絵画は、キャンバスに油絵具等、立体は木材や鉄や石や、なんやかや。画像、映像は、写真なんかは紙にプリントされたりしますし、現在の画像、映像はデータ化され、何がしかのハード機器にその姿を写す。ミクストメディアの表現も同様ですね。
 要するに自分のからだの中にあるイメージというものは、物質化されて初めて他者に伝わるということですね。いやいや、発語があるじゃないか。発語による表現は物質化ではないじゃないか。と考える人もいるかも知れませんが、、、。私はそうは考えません。確かに発語そのものはイメージの物質化ではないかも知れませんが、発語する本人の声帯や口角、顎、舌、口蓋、喉などの体が動くことによって発語される以上、その人の身体化が前提にあるわけです。からだという物質に変換されて初めて、発語は行われる。ということで、発語もイメージの物質化と言えます。
 そして、ダンスも発語と同様の表現方法をとっていますね。発語は相手の聴覚に主に働きかけますが、ダンスは相手の視覚に働きかける(主に)。
 その考えによると、全ての表現はからだの中にあるイメージを物質化する人の、そのからだによって行われるので、物質化イコール身体化とも言えるのかも知れません。
 イメージを絵画という物質に変換する作業は、その人の眼球と筆を持つ手と腕によって行われるし、楽譜や文字に変換する人も同様、鼓膜や眼球と、筆を持つ腕と手(現在はキーをタイプする指かも知れませんが)によって行われる。立体彫刻なども同様。

 身体化=物質化

 ダンスも自らの内的世界やイメージを、自らのからだ(とその動き)へと変換する行為であるわけですが、そのイメージと、イメージするための存在(私の意識)が、物質化されるところの身体と同居している(同一存在である)ところが、多少難解なところですが、前述したように、発語に近いと思います。

 全てのイメージは物質化されることによって表現され、表現という行為を伴って、それを見る者、聞く者、感じる者へと伝えられる。そして、伝えられた相手(他者)のからだに入った瞬間に、それは再び、その人のからだの中のイメージへと変換される。
 そこで、イメージの共有は果たされる。

 随分と面倒で退屈な理論化で、読んでいる途中で興味を失った方も多いかと思います。が、イメージは物質化されることで、初めてその役割を果たすのだと思うと、どうにも活字化(物質化)せずにはいられなかったのです。
 そうしなければ、それはずっと私のからだの中にありながら、混沌としたまま、いずれは忘れられ、失われてしまったかも知れないので。

 イメージを物質化する時に、その二つの狭間の、どの地点に着地させるかということが、その人の感性ということになるのでしょうか。
 着地点によっては、これまでにない新しい(アヴァンギャルド、あるいはコンテンポラリーの)表現になるし、あるいは古典的、伝統的な表現になっていったり、古典や伝統の形を纏いながらも新たな表現の境地に立ったりするのかも知れません。

 その、バランスを「今」という時に対峙させて見極めることが、問われている。
 それは身をもって「今」を物質化するということなのかも知れない。

 と、いったあれやこれやを、美術館に置かれていた、無数の作品たちが教えてくれたのです。
 やっぱり、美術が好きなんだなと思う。
 まあ、私の場合ダンスも美術も同じものなのだけど、最近はダンス観賞よりも美術観賞に引力が働いているようで。。。
 身体性のない(一部の)ダンス作品を眺めるよりも、身体性のある美術作品を眺めている方が、いいに決まっている。

 と、いったところなのかな。