野生

家の近くの店の軒先につばめの巣を見つけた。
巣の中では、いつ運ばれて来るかも分からぬ餌を求めるように、雛たちが口を大きく開いてピーピーと鳴いている。

雨上がり。
そんな光景の中にしばし佇み、なんということもなくまた歩き出す。
生きて、動いている物を眺めるのが好きなのだなと思う。

からだアトリエにしてもベーシッククラスにしても、私がしていることは動く人のからだをただただ眺め続けることに変わりはない。アトリエとベーシックでその見方の方向性は異なるものの、生きて、動く物を眺めるという意味においては、多少の語弊を承知で言えば、動物を眺めているのだと言える。

例えば、動物園で動物を眺めている時に(飼育環境の改善によって、最近では稀なことになってきたが)常同行動を起こしている動物などがいると、その動きは明らかに自然なものとは感じられず、それを眺める者自身のからだにも違和感を与える事となる。
両者のからだに介在しているのは、人間社会が生み出すストレスのようなものと言ってもいいのかも知れない。
それとは逆に、人の手に掛からない野生動物の動きは自然だ。そしてそれを眺める者自身のからだにも、その動きは違和感なく受け入れられるのだと思う。

そのような動きの相違は、踊る人のからだにも存在している。
しばしばダンスと社会の結びつきなどが謳われる昨今ではあるけれど、そもそも踊るということは、人間社会の枠内だけに存在するのか、あるいはそれを包括する野生の領域にまで拡大して存在するのか。
ダンスが社会と結びついているのであれば、社会は野生(すなわち自然)と結びついている。筈である。(願わくば、そうであって欲しい。)
そして、踊るからだそのものは、生きて、動く物であり、いずれは死んで、動かなくなる、自然物として野生の領域に存在している。

踊るからだは、野生動物そのものなのだ。
そうあるべきだと思う。

餌を求めて鳴き続ける、ツバメの雛の動きは自然であって、(だからこそ)美しい。