営み

 M-laboratory公演「Moment of motion」の本番まで、残すところあと10日あまりとなった。
 昨日の合同リハには笠井瑞丈が来て、彼の提案により、4作品中3作品の通しが行われた。もちろん、それぞれの作品は完成の段階まで至ってはいないのだが、やはりこの時期に通しを行い、他者の目を入れておくというのは重要なことだと思う。

 一つずつ、作品を通した後にダンサー4名と瑞丈を交えて、言葉によるフィードバックが行われる。ソロ作品のクリエーションが、自分のからだの内側にある「形を持たぬ何か」「言語化されぬ何か」を客観的に捉え、それに「形を与え」「言語化し」からだの外側に放出する作業であるとするならば、放出されたものを外側から客観視するのが、それを見る者である。そしてそれは「完全なる客観性」であり、すなわち他者だ。
 通しを行なったダンサーは、身体化された行為(ダンス)によって語りかけ、ダンスを見たものは、言語化された声(発語)によってそれに応える。身体と言語は並列に存在し、それぞれが同一のものであることが確認される。

 ダンスは発語そのものであり、発語はダンスそのもの。

 そう言えば「発語することも自身の客体化である」といったようなことを、前にも書いたかも知れない。書いてないかな。
 何にせよ、瑞丈の提案と、そこで交わされた丁寧な言葉によって、それぞれの作品はさらに進化してゆくに違いない。

 既にご存知の方も多いかと思いますが、今回の4つの作品には共通する一つのテーマがあります。そのテーマは漢字にすれば一文字で表されるのだけど、その一文字から広がるイメージや感覚といったものは、あるいはこの宇宙のように広いものかも知れない。そしてその空間的な広がりは、経験や記憶によってダンサー一人のからだにうちに内包されている。ある意味で、からだの中に宇宙が内包されていると言えるのです。
 しかし、そのテーマはオープンにされるものではありません。
 オープンにしてしまうことで、作品を観るお客さんに事前に限定されたイメージを渡してしまうから。イメージが限定されてしまうというのは、作品に意味解釈を求めてしまいがちになり、どこか不自由なものになってしまうものです。あるいはそれは、何者かの都合による、恣意的な誘導とも言えるかも知れない。
 やはり、私たちはイメージの世界においては、自由を求め続けなければならない。
 表現の自由が奪われるようなことが平然と行われるこの世界に生きていたとしても、イメージの自由が剥奪されることは、あってはならないということ。と考えている以上は、テーマをオープンにすることは、イコール観るものの自由を奪うことになるのではないか。と、今回においては考えているからです。

 空想は完全なる自由のもとで行われる。

 今回のテーマは、この世界に存在する全ての人間が等しく持つものであり(もちろんこの文章を読んでいるあなたもそれを持っています)そういった意味では普遍性を持ったものです。あるいはそれは、全ての動物が等しく持つものであると言ってもいいかも知れない。それは可能性や不可能性、時間軸をも超越する象徴として、生命の営みを映し出す鏡のような存在でもあります。

 また、なぜ私が4人のダンサーにそのテーマを提示したのか。それは、とても個人的な想いから来ているので、明確に語ることは憚られるのですが、そのテーマで時間と空間を紡ぎ出すためには、このタイミングしかないのではないかと思ったことが一つ。
 個人的な理由によるものなのだけれど、私自身も、前述した「人や動物」と同様に、テーマとなる存在を自分のからだのうちに秘めている(持っている)ということ。しかし、うちに秘めていながら、その存在自体には絶対になることは出来ないということ。
 もう一つは「それが失われてしまう前に」自らの活動において、そして女性の身体において、そこに向かわなければならないと感じているからです。また「女性の身体において」という条件がある以上、このテーマでのソロ作品は、私自身には創れませんし、踊れません。
 女性のからだが、必要なのです。

 そして現在、そのテーマは一つの種となって、4人のダンサーのからだの中で脈々と動き出している。
 作品が生まれる瞬間、動き出す瞬間は、もうすぐです。

 その瞬間に、一人でも多くの方に、お立ち会い頂きたいと思っています。

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