渡す

三日坊主は達成されず、四日連続の更新。昨日、明日のことなんて誰にも分からないと書きましたが、まさにそれはそれ然りで、おまけに昨日のことなど、とうに忘れてしまったという始末。とかく、分からないことばかりだし、どんどん忘れてしまうものです。無理に分かろうとしたり、忘れぬように心がけたりすると、かえって不自然なことになりかねない。

と、いう訳で本日もパソコンに向かいながらカタカタとキーを打つ時間を作ることになりました。

二日連続の一人リハから一転、今日は四人のダンサーとのリハーサル。昨日まで、そこに「いない」人のために起こしてきた振りを、今日はそこに「いる」人に渡してゆく。

渡すという行為そのものは、大抵は実存する相手がいないと成立しないもので、その行為自体には何かしらを伝えるというニュアンスが付加される。言葉も何も添えられていない物を誰かに渡す場合にも、その物の形状や状態によって、無言のうちに相手には何かが伝わってしまうものだ。例えば、生き生きとした美しい花束を相手に渡す場合は、それ相応のものが相手に伝わるだろうし、変な匂いがする腐った食べ物を渡す場合も、それ相応のものが伝わってしまう。

渡すものの形状や状態。

どのような形状がいいのか、どういった状態で渡すのがいいのか。そこをからだで考えつつも、もう一つ、どういったタイミングで渡すのかということも重要な要素となる。要するに渡し方。一気に渡して喉を詰まらせてしまうよりは、少しずつ渡してしっかり咀嚼してもらった方がいい。しかし、咀嚼の時間が長すぎると、全てを渡しきれぬまま終わってしまう。とかく、大切なものを大切な人に渡すのには、時間がかかるものだから。

突き詰めると、限られた時間をいかに過ごすのかということになってしまうのです。

「いない」と「いる」。

その両極、

あるいは狭間で、

やりとりされるからだ。

その状態、

形状、

タイミング。

出来ることならば、私のからだをあなたに渡してしまいたいのだけれど。それも不可能なことの一つだった。