知るということ

 自分のカラダ。
 自分自身のものでありながら、案外知らないことが多い。
 自分が所有しているものは物の数ほどにあるのだが、それらは全て捨てることができる物でもある。言い換えれば所有しているものを全て失ったとしても、自分は生きることができる。
 自分のカラダを自分で所有しているという感覚は、なかなか実感には至らないものの、もし仮にそうだとするならば、生きながらにして自分のカラダを捨てることは不可能である。物理的には可能ではあるが、現代社会においてその思想を持つこと、あるいはその行為に至ることは一般的に禁じられている。現代に生きている間、捨てられない唯一の所有物が、カラダと言える。
 そしてカラダは自分の所有物でありながら、自分自身を象る実態として存在している。さらには実態でありながら、それは常に変化し続けている。同じ形であり続けることはない。すなわちカラダは流動する実態である。ならば、自分自身を流動する実態として、どのように(あるいはどの時点で)捉えることができるのか。自分のカラダを本来あるべき姿として、自分自身で所有できているのだろうか。ということ。その実感。そしてその瞬間。
 身体で表現するということは、その瞬間を捉え続ける行為である。それは生の謳歌でありながら、死の祝祭でもある。自分のカラダは生の可能性と死の可能性との両方を備えており、またその可能性はカラダを所有する全ての人間に同等に与えられている。同じ数だけ、謳歌があり祝祭がある。本来、そうあるべきである。
 全ての人間は自分を象る流動実態として、カラダを所有している。その定義において、人間は一つの共通感覚を持っている。言い換えれば、その共通感覚において「人間は一つ」であると言える。身体による表現は、そこに作用している。
 自分のカラダ。
 自分自身のものでありながら、自分以外の全てのカラダでもある。だから、案外知らないことが多い。
 
 
 
 身体による表現は、一個体として、同時に総体として「人間を知る」、知的行為である。
 知的好奇心を持って、世界に向かいたい。