言語の不必要性
昨日、京都からきたまりが来岡し、10月のきたまり・KIKIKIKIKIKIの公演の打ち合わせを行った。
作品は昨年からきたまりが始めたプロジェクト(マーラーの交響曲第1番から第10番までを振付するもの)の2作品目にあたるもので、楽曲は第7番の「夜の歌」である。
作品の内容に直接触れることは、勿論ここではしない。10月14日〜10月18日にアトリエ劇研で目撃してほしい。
儀礼的打ち合わせも終わってから、きたまりとなんだかんだと他愛もないことを話した。まさしくその会話そのものは、言語化されたコミュニケーションであるのだけど、その内容の中で非言語コミュニケーションの話にもなる。非言語コミュニケーションとは何か。簡単に言えば、言語に拠らない意思疎通であるが、あるいは言語・身体の中に見え隠れする、無意識の言霊のようなものとも言える。それは、感覚的コミュニケーションとも置き換えられるかもしれない。定義など、どうでもいいのだけど、とにかく非言語によるコミュニケーション能力というものが、身体によって(よらずとも)表現する者には必要とされるのではないだろうか。勿論、非言語コミュニケーションに行き着くには、言語化されたコミュニケーションを通過することも必要とされる。ただ、直感的な共感といったものが、我々には元来備わっているのだが、現代社会において日常生活を営むにあたり、それは減衰しているのではないかとも思う。身体性の欠落によるコミュニケーションが横行する今、だからこそ、非言語コミュニケーションに着目するべきである。
と言ったことを、身体性の欠落した言語によって、この場所で語るという矛盾。
ただ、
そこの場所にも、非言語コミュにケーションは命を宿している。
身体の強みはそこにある。
きたまりはちっちゃいけど、いい女だな。
ん、、、怒られるか。。。