変身

 遠くから花火の音が聞こえてくる。
 けれど、花火の実態は眺めることが出来ない。
 どこか、遠くで、打ち上がる花火。

 ふと、夏の終わりの到来を思う。

 あと一週間、もう少し、夏が続いてくれたらと思いながらも、何故こんなにも夏に執着するのだろうと、我ながら不思議に思う。
 10代後半から20代にかけては、どちらかと言えば、夏は嫌いな季節だったはず。冬の身の引き締まるような寒さに、コートのポケットに両手を突っ込んで歩くのが好きだったのだが。30代あたりから逆転したような気もする。海水浴などは子供の頃に行ったきり。普通ならば10代、20代あたりには、夏の遊びを謳歌するのだろうけれど、私は夏でも日焼けもせず、青っ白い顔をしていました。。。ところが、30代には海水浴などにも行くようになり、その頃ふと、冬よりも夏の方が好きになったんだなと思ったものです。
 この10年は海水浴などに行くことはなくなりましたが、夏になると海に行きたくなり、車で海岸線を走ったりはしています。
 夏が好きなのだ。正確には、夏の風情が。
 もちろん、冬が嫌いということもありません。夏には夏の、冬には、冬の風情があり、それを味わうことで、からだは喜ぶのです。

 季節は気がつかぬうちに少しづつ巡り、気がつくとその変化に驚かされます。
 人のからだもまた同様、気がつかぬうちに少しずつ変化し、気がつくと大きな変身を遂げている。まるで、さなぎから羽化する蝶のように。
 昨日のからだアトリエでは人のからだの、変身の瞬間を垣間見ることが出来ました。
 からだの内に秘められた自己、あるいはからだの内に閉じ込められた内的世界が、踊ることによって、外側に飛び出してくる瞬間。その変化は日々目にすることの出来るものではなく、まさにさなぎの中で変態する蝶のように、突然眼前に現れるものです。おそらくは、そのさなぎ的身体の中で、その人は長い時間をかけて、変身しているのだろうと思います。
 日常的身体から、表現物としての身体が立ち現れるその瞬間は、からだの内側と外側がひっくり返るような感覚を、見ている者にもたらします。からだが思考から解き放たれ、自由に舞い始めるその瞬間は、ある意味においては神秘的でもあって、それは生きる物体としての、生命の神秘とも言えるのかも知れません。

 はたと、文字を打つ手を止めて読み返してみると、その場に居合わせなかった方が、この文章を読んでも「何を言っているのか?」と思われるかも知れませんね。
 でも、そのような瞬間は、起こるのです。確実に。

 文章化も、映像化も出来ない、その瞬間の共有。
 それが、ダンスの力なのかも知れません。

 変身を遂げたからだは、そのからだを所有する本人の強い意志によってのみ存在しています。そしてその意志は、生きるということを、からだによって伝え巡ってゆくものなのだと。そう、思います。

 季節が巡るように、からだは移ってゆく。