変異

 先日一都三県に緊急事態宣言が発令されましたが、宣言発令後初の三連休初日となる本日の街の人出は、お世辞にも少なくなっているとは言えない状況のように思えた。もちろん外出自粛だけが重要であるわけではないけれど、それでもどこか釈然としない思いにもなる。

 そのように、昨年の今頃から世界は大きく変化し始めたわけだけども、その変化というものは生活や環境、ルールやモラル、考え方といったようなからだの外側にある社会的なものだけではなく、からだの中ではそれ以上に大きな変化が起きている。
 これまで当たり前のように見えていたものが見えなくなり、逆にこれまで全く不可視であった事柄が、可視化され始めている。接触行為に対しても同様の(あるいはそれ以上の)変化が起こっているわけで、それだけとっても、からだの中では何かしらの「逆転的変化」が起こっているといえる。さらに、往々にしてその逆転というものは、常に感覚に根ざしたところから発生しているのではないだろうかと。

 そのように、社会や環境が変化することによって、人間にとって全ての元となるからだ(とその感覚)そのものが根底から変化しているのだということに、私としては目を向けずにはいられないわけです。
 現在のような突然起こった世界規模による社会環境の変化に対応するためには、からだは「突然変異」という現象によって順応することを選択せざるを得ないかも知れないわけで、その感覚的変容に自身の思考や意識が追いついてゆくまでには多少のタイムラグが発生することも考えられる。
 要するに、既に自身の中で変容してしまった感覚に、未だ気づくことができていないという状態が起きているのではないかと。例えばその状態が一個体(一人のからだ)のみで起きているのであれば、そうではない(感覚変容していない)無数の個体によって、そういった状態の個体は淘汰される(治癒される)のかも知れないけれど、あるいはそのような状態の個体が無数に(または全人類規模で)存在しているとなると、おそらくは感覚と意識の不一致という状態が人類のノーマルになる可能性がある。

 あるいは、既に世界はそうなっているのかも知れないけれども。

 自らの身体の実存性を体感できなくなることが、今後人間にどのような影響を及ぼすのか、それが人間にとって良いことであるのか、悪いことであるのかはわからないですし、おそらくはアンチノミーの範疇で語ること自体、問題の本質から外れているのかもしれない。
 ただ、からだへの実感を失った人間は果たして動物(生命)たり得るのだろうかという、危機感にも似た疑問が頭を擡げる。

 現在、大きく変化しているであろう感覚に対して、からだはどこまで追いつけるのか。