描写

梅雨明けした模様。

東京は昨年より30日遅れての梅雨明けだったらしい。と、いうことは昨年は6月下旬には梅雨明けしていたという事?昨年は岡山にいたから、その記憶がないけれど、梅雨明けとは年ごとにそんなにもずれ込むものなのか。。。
ともあれ、青空が戻った。
そして、猛暑がやってくる。

夏バテせぬよう。

さて、しばらくぶりの更新となりましたが、私は特に変わることなく日々を過ごしておりました。更新を怠っていたのは、活字に向かうということに思いが至らなかっただけです。時にはそのようなことも起こりますね。なぜかは分からないけれど。
あるいは、活字ではなく、からだに向かう時期であったのかも知れません。

最近のからだアトリエでは、動くからだの「感覚」について考えています。
これまで、末端からの動きや、関節部分による動き、聴覚的に骨を捉える、からだの内圧などを使って、動くこと、踊ることについて考えてきました。それら全ての考え方、方法論の向かう先は、踊る者にとって、からだとは一体何か、自らのからだを動く物として客体化するとはどういうことか、という事に尽きますが、その過程には必ず、感覚の存在が乗っかってくるのです。

五感と言われる、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚に加え、身体内触覚とでも言いましょうか、自分のからだが動いている時の(主に筋肉や腱、時に骨に掛かってくる)肉体の感覚。
筋肉の伸縮の感覚や、重心の移動による下半身に掛かる負荷の感覚、動きの質感の変化による感覚の違いなど、踊っている(動いている)時に発生する肉体の感覚はまだまだ未知の領域で、具体的にされてはいないのではないかと思います。その未発達分野である感覚を自らの動きによって紐解いてゆくように動く。実際に動きながら、その動きの状態が引き起こす感覚を、丁寧に描写してゆく。
感覚そのものを、スケッチするという事。
感覚を表現とするための、ドローイング。

例えば、油彩、水彩を問わず、色彩を乗せて創作する画家や、彫り出すことによって創作してゆく版画家や彫刻家などが、多くのスケッチやドローイングを残しているように、振付や、作品を踊るダンサーも自らの肉体感覚を常に描写、スケッチしてゆく必要がある。一、感覚表現者として。

よく、からだに向かう、という言葉を耳にしますが(私自身も使いますが)からだに向かうとは一体どういったことなのでしょう。あるいは、からだに向かうということは、本当は自らのからだから離れ、遠ざけて見ることなのかも知れません。
からだに向かうという言い回しは、一方で私自身であるからだが存在し、一方で私のからだに向かう私自身が存在してこそ成立しうる、ある種の矛盾を含んだ表現です。
私が、私のからだに向かうための準備として、まず、私と私のからだを、別のものとする(私を、私のからだから乖離させる)必要があります。
要するに、自らを客体化するということ。

その客体化を経て、からだに向かう。
自らのからだを、動く物として捉える。
動く、物体として。

そして、自らのからだに、感覚を宿すように、踊る。

そのための、感覚のスケッチ。
からだは、奥が深くて、面白い。
宇宙を写す、鏡のように。