景色

ゴールデンウイーク。改元の10連休もぼちぼち終わりますね。
私にとっては連休ということもなく、ほぼいつもと変わらない毎日ではありますが、街に出てみると休日の装いの人たちが多いので、なんとなく大型連休感を味わったりしています。意味もなく駅前のベンチに座って行き交う人を眺めたりとか、用もないのに出かけてみたりとか。

まあ、それも、いつもとあまり変わらないか。。。

そんな中、昨日は連休にも休まず、毎週金曜日の「からだアトリエ」でした。
ずっと継続して行ってきた、からだの末端から動くというワークも少しずつ発展し、両手足の4つの末端を動きの発端として捉えてゆくところまで来ました。そろそろ身体内距離の意識から、身体外へ意識の距離を伸ばして行こうかなといったところです。これは、末端の意識とはまた別の「意識の内と外」と言う、踊るにあたって重要な感覚形成のワークとなって行きます。でも、昨日のワークは「末端の延長として捉えるべき動きの造形」といった流れで行いました。(※造形については、いずれまた別の機会に書きたいと思います。)

実存としての自分というものはもちろん、その身体が存在する範囲にある訳ですが、踊りとしての自分の動きというものは、常に身体の外側に存在しているとも言えます。自身の身体の外側に対して、その身をアプローチしなければ、身体はその場所に留まり、動かない。すなわち静止した状態となるからです。もちろん、静止している状態をもって踊りとするという解釈も可能ではありますが、その状態のみではおそらく「踊りきる」ことは出来ないのではないかとも思います。

身体の外側にある空間、数秒後、あるいは一瞬先の未来に対して、身体をアプローチすることで人の身体は動き始める訳です。その身体の数センチ外側を、そして数秒先の未来をも、自らのものとすることが、あるいは踊りと言えるのかも知れません。
踊るという状況においては、「自らの存在」というものは、実存する身体そのもののことではなく、その外側も含まれてくるということになる。

そうなると、自分自身と、自分以外の区別が、少しずつ薄れてくる。

私という強い実存をその身に伴いながらも、私という存在が消えるという状態。その、感覚。両極に立つことで、それを一体とするかのように。
有りながらにして、無い。
踊ることによって、そこにまで至ることが出来ればと思う。

休日の駅前でベンチに座る私は、そのような状態に近い存在となって、あるいは景色の一部となって、その場に置かれているのかも知れません。