行動と反射

人は考える。 

例えば、人と人が対面した状態で会話をしている時に、その人の考えはどこから湧いてくるのか。何かしらのきっかけがあって、人と人の間に会話が起こり、相手の発言によって思考が促されて、その人は考える。そしてその考えを、発言する。と、普通は思うけれど、実はそうではない。
相手の発言によって促されるのは、ある種の行動である。その行動とは発言そのものの事であり、発言と並行して反射的な思考が行われる。そして、あるセンテンスまで発言してしまうと、それは反射思考と共に収束する。その発言が、相手の行動に基づく発言を促し、相手も発言と並行して反射思考を行うこととなる。会話をやりとりする二人は、互いに行動と反射思考を並行して行いながら、行動によって互いの思考を共有してゆく。そして、さらに別の次元脳で「考える」という事をしているのである。

「考える」という事は、相手と自分の会話を俯瞰して眺めることで、成立しうる。ある意味では、自分の発言(という行動)と反射思考を、客観的に捉えてゆくものだと言える。だから、会話する二人が互いに考えてしまうと二人とも発言の主体から離れて、ただ会話を客観視する人になってしまい、結果、会話が止まり、沈黙が訪れるのだ。
思考はあくまで反射的、つまり受動的なものであり「考える」ということは、能動的であるとも言える。

発言とそれに伴う自身の反射思考は、まさしく行動そのものであり、行動した結果如何によって自身の考えが培われ、備わってゆく。話すことによって、自らの考えが発見、整理されてゆくというような状態になるのは、そのためである。

また、そのような行動、反射思考と「考える」ということの関係性は、踊ることにも当てはまる。
何かのきっかけによって、身体による行動(踊るということ)がまず先行し、動く自らのからだによって、反射的思考が同時に進行し、その行動と反射思考が連綿と繰り替えされることによって、ダンスは継続してゆく。さらには、踊りながら自身のからだを、俯瞰して眺めることで、結果的に自らの「考え」が形成されてゆく。
要するに、表現されるべきものは、踊る者の「考え」ではなく、その瞬間の行動と反射的な思考のみなのだ。
コミュニケーションと同時間軸に存在するものは行動と反射だけで、考えるという行為や、結果的に確立されたその人の考え方と言ったものは、現在(いま)この瞬間に存在するものではなく、ほんの少し古いものであると思った方がいい。

究極的には、踊るということは、言語化よりもさらに現在に接近した、瞬間の会話なのだ。
踊りは常に考えることよりも先行して存在する。
その先にあるのは、行動と反射のみ。


そして、このように考えられた上記の文章は、既に記録として残された、ダンスよりも幾分か古いものなのだ。
まあ、それが、活字の強みとも言えるのだけどね。。。