危機

言葉について。

一人の人が言葉を獲得し始めるのは、大抵の場合は物心つく以前からではないかと思う。おそらく自分が言葉を獲得し始めた初期段階を記憶している人は、そう多くはないのではないだろうか。すべからく母国語というものは、意識する事なく、もしくは意識形成以前から始まって、意識形成に伴って獲得されてゆくものとも言える。
あるいは、人の意識というものは言語獲得に作用して形成されるのかも知れない。
言葉は、肉体の後にあるが、それは意識以前にある。

肉体に意識を宿すために存在する、言葉。

よって、無意識を意識化するということは、無意識の領域に言語で踏み込むことであると言える。そこに、その人にとっての新言語獲得の瞬間がある。肉体と感覚だけの世界である無意識領域を、言葉によって捉えるということは、身体そのものの言語化と言ってもいいのかも知れない。
そしてそこに、身体性を伴った言葉が生まれる。

からだそのものとして(あるいはからだの延長として)発せられる、言葉。

言葉をやりとりすると言うことは、からだ(肉体と肉体)を繋ぐ行為であり、それは他者のからだに優しく触れたり、あるいは深く入り込んだり、時には傷つけたりするものだ。そして、そのような行為の積み重ねによって、肉体と肉体は強く結びつく。それまで孤独であった一個の肉体は、からだの延長として存在する言葉によって、他者の肉体と結ばれる。そのように肉体同士が結ばれた状態を「信頼」と呼ぶのかもしれないが、それだけに言葉の持つ力と、その重さは計り知れないものがある。と、言うことを知る必要がある。

時間をかけなければ信頼など築くことは出来ないが、それが壊れるのは一瞬だ。
そしてそのどちらもが、言葉によって行われるのだから。

現代。
言葉は肉体から切り離され、記号化され、氾濫している。
多少であれば、身体性を伴わなくとも、記号化形骸化しても、消費されゆくものとして理解は出来るし、一向に構うことなどない。が、しかし、利便性のみを求めるあまりに、それが過剰となってくると危機感を感じずにはいられない。
現在進行形のその状況は、からだの存在を希薄にしているのではないだろうか。
からだから離れた言葉は、軽量化され、力を失ってゆく。
そのやりとりの先にあるのは「信頼」ではなく「疑い」でしかない。

たとえ、どれだけ言葉が先行しても、それは肉体の前に存在することなどないのだ。
からだは、全てのものの、前に存在する。