会話

会話について。

先日、ある人に会いに日暮里に行った。目的は、話すため。
日暮里から谷中へ向かい、谷中銀座の裏あたりのカフェで色々と話す。
その界隈へは岡山に引っ越す前にはよく訪れていたのだけど、10年ぶりに訪れてみると結構街並みが変わっていることに気づく。まあ、10年だから。変わるよね。
その変化の気づきは、ある人と話すためにその場所に行くことによって起きたと言える。
会話が、場所を選んだのだ。

30年ほど前までは、人と会話するためには、その人と会わなければ成立しなかった。会話のためには、ある特定の場所が必要とされていた。同様に電話での会話も、当時は家にしか電話がなかったので、誰かと会話するために電話をかけるにしても、その人の家という限定された場所を必要とした。ちなみに公衆電話はあったが、その利用は専ら発信する側として存在し、受信する側はやはり家や会社といった場所に限定されている。
話している時には、相手が何処にいるのかということを、互いに了解していたのだ。
会話と場所を切り離すことは出来なかったと言える。
しかし、携帯電話の登場によって、会話は場所から切り離されることとなる。
相手が何処で何をしているかを知らなくとも、その人の携帯に発信すれば会話は成立するようになる。さらには、インターネットの普及によって、海外の人とも簡単に会話が可能となる。会話は、地球の大地から剥ぎ取られたように、場所という概念を失いつつある。

会話が場所から切り離されたことは、時間にも影響を及ぼしている。
携帯電話を持つ全ての人が感じていることだと思うけれど、人は常に会話のために時間を用意しておかなければならない。いつ、誰から、携帯に電話がかかって来るか分からないのだ。前述の30年前であれば、電話がかかって来るのは限定された場所にいる時だけであったが、現在は違う。場所を限定せず、いつ何時も、会話は突発的に起こり得る。
また、会話のために、限定された場所に向かう(会って話す)という行為は、移動のための時間を必要とするが、携帯電話での会話は移動時間すら必要としない。

時間と場所は切り離されることなくそこにあるが、会話だけが乖離してしまった。

便利な時代なのだ。
しかし、往々にして便利なものは、深みや趣が失われがちになる。

10年ぶりの谷中の街並みと、一人の男との会話が、それを教えてくれた。