言葉
新作「あなたがいない世界」上演まで二週間。
クリエーションはぼちぼち佳境を迎えようとしている。
この作品に取り組もうと決めてからこれまでに「いない」という現象について、あらゆる状況から、からだで考察を重ねてきた。それは時に航行する船の羅針盤を狂わせ、時に座礁しかけ、時には荒波に船体を激しく揺らすような作業だった。そしてそのような日々は、これからまだ数日は確実に続く。
くたびれた船が向かう先は、あなたがいない世界である。
クリエーションに向かう時、大抵の場合は作品のイメージテキストを書き起こして、それをクリエーションメンバーに渡して、イメージの共有と個々の掘り探りといった作業を行うのだけれど、今回の作品では書き起こしたテキストはメンバーに渡していない。
伝えるべきことを文字にして渡すという行為は、それなりに効率がよい。わざわざ全員集まって伝えるための時間を作らなくとも、それを渡された人が都合の良い時に、都合の良い分量を読み進めればいいから。そして、テキストを紛失しない限り、書かれた内容の時系列を自在に行き来し、選別再読することも可能だ。聞き逃す、という状況は起こらない。それはそれは、紙に書かれたテキストとは便利なものなのだ。
しかし、例えばそれをメンバーが自宅で読む時、そこに私はいない。
前もって紙に書かれたテキストというものは、いついつ、誰彼に渡すかを前もって決めることが出来て、その為に用意されたものとなる。しかし、例えば紙に書かれたテキストを渡さずに、その内容を全て言葉(口頭)によって伝えるとしたら、それはかなり時間と労力が必要とされる作業となる。しかも、そこには伝えるべきタイミングというものも関わってくる。伝えるべきそのタイミングにメンバー全員が居合わせるとは限らない。さらに、居合わせることが出来なかったメンバーに伝えきれなかったものを、改めて伝えるタイミングが再びやってくるとは限らない。そのタイミング如何によっては、ある人には何も伝わらない可能性だってある。
生きた言葉を完全にコントロールすることは、なかなかにして難しいのだ。
しかし、それでも私は書面を捨て、言葉に頼る。
なぜなら、私が言葉を発する時、私はそこに確実にいるからだ。(電話を除く。)そして、それを聞く者も、確実にそこにいる。(電話を除く。)そして、例えば、そこに居合わせることが叶わなかったメンバーがいたとしたら。そこには、いない人が、いるのだ。
いないということを考察し、からだから実践すると、一つのパラダイムに至る。
今、ここに、いない、が、いる。
そして同時に一つのパラダイムシフトが起こる。
いない。は、いる。を前提として(それを経過して)起こり得る現象ではある。
しかしながら「生まれ得なかった命」は、その前提(や経過)を覆す。
もともと、いない。という存在として。
いない。は欠落ではない。存在なのだ。
ちなみに、この言葉は、一つのテキストとしてインターネット上に残るが、ここには、私はいない。