有無

M-laboratory新作公演「あなたがいない世界」上演まで、残すところ10日となった。

この作品を創るきっかけとなったのは、前作のM-laboデュオ作品「いなくなる動物」と同様、とある出来事に起因している。

「いなくなる動物」は2016年にアイスランドで射殺されたホッキョクグマの一個体と、その出来事を起こす原因となった環境が発端となっていたが、今回の作品は「動物」ではなく、ある意味において限定された「ヒト」が発端として、私の中にある。
そして、その「ヒト」は、この作品には実存としては存在していない。
実存としては存在しないけれど「いない」ものとして、存在している。

舞台作品は、舞台上作品世界に存在する(出演者側からすれば)私と、その作品世界を鑑賞するあなたによって成立する。あるいは、(観客者側からすれば)舞台を鑑賞する私と、作品世界にいるあなたによって。
私とあなた。実存としては二人称で成立しうる。

しかしながら、創作過程において、私とあなた以外の、三人称(彼、彼女、あの人)の存在を中心にしてみると、実存としてそこに存在するダンサー(演者)や客席に存在する観客よりも、そこに「いない」誰か、不在としての存在の方が重み増してくる。

いないことの、重み。

さらに、それは「存在する実存」と「不在としての実存」の両極に対して、ある問いを投げかけてくる。

「いる」でもなく「いない」でもない。
「ない」もの。

「無」とは。

このような形而上学的な思考は、まさしく「動物」ではなく「ヒト」の発想であり、やはり、今回の創作の発端は「ヒト」にあったのだなと、クリエーション終盤になってきたここ数日、改めて感じているところである。

無いものは、有るのだ。
などと、簡単には言いたくないし、言うことなど出来ない。
が、からだは、それを感じているのかも知れない。

無いものも、有るのだと。