時代

花粉。
先日記したような重症は1日だけで済んだものの、日に数回、突発的に症状が現れる状態が続く。まあ、慢性化しないだけましとは言うものの、くしゃみが7回、8回と止まらずに連発すると、直後に「花粉め。」とつぶやいてしまう。

とは言え、春がやって来るということで、寒いのがあまり好きではない私にとっては、堪えどころといったところでしょうか。

そのようにして、この国の季節は巡っている。

そして数ヶ月後に、この国の時代が変わる。

元号が変わることで、何が変わるというものでもないのだけれど。それはどことなく正月に似ているような気もする。何が変わるというものでもないけれど、確実に何かが変わる。例えば、硬貨の年号表記がそれを物語るように。あるいは、Hey! Say! JUMPは過去のものになってしまうのだろうか。。。

ここのところ、私自身が舞台活動を始めてからのアーカイブを整理するために、古いものから目を通しているのだけど、やはり「時代だなあ。」と思ってしまうわけです。
コンテンポラリーダンスというジャンルで考えると、近いところでは90年代あたりが大きな過渡期にあったのではと、個人的には思うのだけど、もちろんそのような表記が一般化される以前に70年代、80年代にも、大きな過渡期はあった。そして、2000年代に入るとコンテンポラリーダンスというジャンルは一気に拡がってゆく訳ですが。。。

では、現在は?となると。
やはり、過渡期なのです。

コンテンポラリーという名称である以上、常に過渡期なのです。
同時代性ですから。いや、同時間性、と言ってもいい。

そこで、一つ疑問が生じるのです。

同時間性にありながら、常に過渡期、常に前衛である状態、要するに変化し続ける状況下において、それ自体を「時代」という区切られた時間解釈によって限定することなど、可能なのか?
現在を「○○時代」と呼称した時点で、既にそれは過去のものとなってしまうような世界においてコンテンポラリーは、モダンや、ポストモダン、ポストポストモダンのように、過去のムーブメントの呼称となり得るのか??
言語化より先にある身体表現であるが故のコンテンポラリーダンスに、時代が追いつく事など可能なのか???

疑問符いっぱいですみません。。。
強く主張したい訳ではなく、ユーモアです。

兎に角。
おそらくは、同時間性、あるいはコンテンポラリーとは、現在のみに存在するのではなく「過去によって形成されうる今」のことを言うのかも知れないなあと。
単純に、今、だけを追いかけているのでは、もう、ダメなのかも知れないとも思う。今、を追いかけているという状況は、まさに、今に追いついていないからであって。
舞台芸術そのものが、時間芸術としてある以上、時間の存在は今だけではない事を認識しなければならないのだなと、そんな風に思います。

何にせよ、やがて、新たな時代がやってくる。
その時代を形成しているのは、過去の全てを背負った現在なのだ。

時間は流れているのではなく、降り積もっている。
いつもその上に、私たちは立つ。