指先

今日突然、花粉症の症状が現れる。
10代の後半までは、ひどい花粉症に毎年悩まされていたけれど、20代に入ると何の予兆もなく突然症状はどこかに消えてしまった。それまでの毎年が嘘のように、鼻は通り、意識明晰の春が訪れ、かれこれ、二十数年が経ったのだが。
今朝、目覚めて、鼻水が垂れてきたので、鼻を擤む。気がつけば、喉もやられていて、目は涙で半ば濡れている。くしゃみの連発。そして、鉛のように頭が重い。

瞬間、風邪か?と思ったが、その思いは、ある確信によって直後に否定された。

花粉だ。

ということで、使いかけのティッシュボックスは、午前中のうちに空となった。
午後からは、曖昧な思考に加えて、軽い首肩の痛みと関節の鈍痛が加わる。
私に出来ることと言えば、鼻を擤み続けることと、慢性化しないことを祈るだけだ。

どうか、突発的な症状であって欲しい。。。

さて、そのようにして私は、ティッシュを鼻に突っ込んで、ブログに向かってキーをカタカタと打っている。曖昧な思考を両肩の上に背負い込んでいても、かろうじて指先は繊細に動く。

指先について。

昨日より、武蔵小金井で始まった「からだアトリエ」は、指先(末端)の意識がつくる総体の身体といった内容から始めてみた。もちろん、踊るからだは皆、無数の質感を有しているのだけれど、そのからだの質感といったものは、何によって、あるいはどこから、形成され得るのか。さらに、その質感の変化をコントロールするために必要とされるものは、何か。

その答えの一つとなるものが、指先の感覚としてある。

指先は、一見末端として捉えられがちだが、実は違う。からだの末端として存在しているものは、皮膚であり、たとえば、からだの中心として考えられている丹田あたりであっても、身体外部に近い部分については、末端と捉えることが出来る。
さらには、からだを捉える時に、中心と末端とか、部分や総体というアンチノミー的な考え方も釈然とはしなくなる。中心は無数の末端によって、また、総体は部分の集合によって構成されている、一つのものであるのだから。

指先の表情や質感に拘り、未だ知ることのないそれらを引き出すことで、自身の踊りは大きく変容する。そして、指先(末端)をコントロールすることによって、からだ全体(総体)をコントロールすることが可能となる。からだは、一つのものであるのだから。

クラスでは、世界の(古典からなる)舞踊の手や指の型なども幾つか紹介し、各国の舞踊の身体を形成してきた、文化や風土、歴史背景などとの関わりに興味を向けるものとなった。そこは、非常に軽くでしたが。。。

指先は、顔と同じように無数の表情を持ち、絶えず変化し続けている。それは一つの意思、感情の表現器官としてあり、同時に現代人にとって特に重要な道具でもある。

指先は思考し、指先は発している。

私たちがそれを意識する、しないに関わらず。