蝉狂

 数日前から蝉が鳴き始めた。
 一番蝉はもう先週の事だったかな。僕は毎年蝉の声を聞くと狂う。言葉のあやとかそんな事ではなくて、本当に狂ってしまう。とは言っても誰か他のヒトが僕を見て、狂っているかどうか分かるという事もないと思うのだけれど。「それ」は僕の身体の内側のとんでもなく深いところにある小さな鐘のようなものだ。誰にも見る事は出来ない。おそらく。そして、蝉の声が、その、身体の深淵にある、小さな鐘を、震わせる。
 ま、自分が「狂う」という事実を認識出来ている以上、もちろん正常な部分を引きずっている筈だけれど。「それ」が起こっても、日常生活や、会話などに支障をきたす訳ではないし(いや、多少…という事はあるかも知れないけれど…)、はたまた訳の分からないものが見えたり聞こえたりする訳でもなければ、もちろん全裸になって大通りを闊歩するような奇行にはしる訳でもない。ただ、その小さな鐘が震えている間には、普段(と、いうのは蝉の鳴かない時期の事。秋冬春あたりの事。)感じる事のないものに、極端に意識が向いてしまうのだ。その感覚たるや全身の毛穴が全部開ききってしまうようなもので、緊張と弛緩が同時に存在しているような不思議な感覚なのです。
 「それ」が何であるのかは、今ここで説明はしないけれど、いずれ長い文章によって「それ」は書かれる事になると思う。
 そんな風に蝉の声は僕の聴覚から入り込んで、やがて僕の身体のどこかにある深淵へと辿り着く。
 鐘が、震えている。微細に。