物質

 長い時間、動物の骨格標本を眺めていると、目の前に物として存在している骨が、私のからだの内側に隠蔽されている私自身の骨と共鳴するような感覚を起こす。それはどうにも不思議な感覚なのだけど、私自身もまた沈黙とともに眼前に屹立する骨と同様、物であるということに気づかされることになる。物言わぬ、物としての骨は、そのように音もなく語りあっている。

 本格的に創作活動に携わるようになってから30年余りが経過したが、現在の地点から眺める私の創作というものは、その多くが物質としてのからだに対しての叛逆であったように思う。その時期その時期において、それは感情的になって表出することもあったし、記号的になることや世俗的になることもあった。時には心象に傾いたり、現象に振り切ったりもした。今になって思うことは、それら自身への叛逆的な表現行為は、そのまま自身からの逃避行為であったに過ぎないのではないかと思う。

 しかしながら、私の中に現在も変わらぬまま居座っている創作の核とは、やはり物質的であると言っていいと思う。誤解を恐れずに言うのならば「からだは物である。」ということを実証することが、私の創作を支えているのかもしれない。
 ただ、画家が絵筆を握ってキャンバスという物に向き合うように、音楽家が自らのからだで楽器と向き合うように、私は自分の唯一の所有物であるからだに向き合いながら(あるいは他者のからだと向き合いながら)また、その物に宿る意識という時空と向き合いながら、現在の生を描こうと試みているだけなのだろう。
 それは、既に多くの先人たちによって為されてきたことではあるけれど、それでも私は同じ轍を踏んでゆくつもりだ。

 物質は常に語りかけてくる。それは人間の言葉の範疇を大きく超えた語りかけとなって、私のからだに届く。からだの内側に隠蔽された私の物質部分に。
 私はその語りかけにのみ、耳をむけようと思う。

変異

 先日一都三県に緊急事態宣言が発令されましたが、宣言発令後初の三連休初日となる本日の街の人出は、お世辞にも少なくなっているとは言えない状況のように思えた。もちろん外出自粛だけが重要であるわけではないけれど、それでもどこか釈然としない思いにもなる。

 そのように、昨年の今頃から世界は大きく変化し始めたわけだけども、その変化というものは生活や環境、ルールやモラル、考え方といったようなからだの外側にある社会的なものだけではなく、からだの中ではそれ以上に大きな変化が起きている。
 これまで当たり前のように見えていたものが見えなくなり、逆にこれまで全く不可視であった事柄が、可視化され始めている。接触行為に対しても同様の(あるいはそれ以上の)変化が起こっているわけで、それだけとっても、からだの中では何かしらの「逆転的変化」が起こっているといえる。さらに、往々にしてその逆転というものは、常に感覚に根ざしたところから発生しているのではないだろうかと。

 そのように、社会や環境が変化することによって、人間にとって全ての元となるからだ(とその感覚)そのものが根底から変化しているのだということに、私としては目を向けずにはいられないわけです。
 現在のような突然起こった世界規模による社会環境の変化に対応するためには、からだは「突然変異」という現象によって順応することを選択せざるを得ないかも知れないわけで、その感覚的変容に自身の思考や意識が追いついてゆくまでには多少のタイムラグが発生することも考えられる。
 要するに、既に自身の中で変容してしまった感覚に、未だ気づくことができていないという状態が起きているのではないかと。例えばその状態が一個体(一人のからだ)のみで起きているのであれば、そうではない(感覚変容していない)無数の個体によって、そういった状態の個体は淘汰される(治癒される)のかも知れないけれど、あるいはそのような状態の個体が無数に(または全人類規模で)存在しているとなると、おそらくは感覚と意識の不一致という状態が人類のノーマルになる可能性がある。

 あるいは、既に世界はそうなっているのかも知れないけれども。

 自らの身体の実存性を体感できなくなることが、今後人間にどのような影響を及ぼすのか、それが人間にとって良いことであるのか、悪いことであるのかはわからないですし、おそらくはアンチノミーの範疇で語ること自体、問題の本質から外れているのかもしれない。
 ただ、からだへの実感を失った人間は果たして動物(生命)たり得るのだろうかという、危機感にも似た疑問が頭を擡げる。

 現在、大きく変化しているであろう感覚に対して、からだはどこまで追いつけるのか。

 

変革

 252日ぶりの更新。

 252日というと8ヶ月と少しくらいでしょうか。前回の投稿は昨年の緊急事態宣言中のことでした。それから8ヶ月が経ち、年も変わって2021年。年明け早々の本日、2回目の緊急事態宣言が示唆されましたね。それについては殊更に語るべきことはありませんが、8ヶ月もの間、更新をしてこなかった理由は語ろうかと思います。

 昨年、世界に起きた激動は少なからず人間の身体感覚、思考性、行動の基準に変化をもたらしてきました。そしてその変動はこれから先も、数年間は揺れ動きながら続くものだと考えられます。また、そういった変化の揺れ動きが収まった後に、再び安定の世界を取り戻したとしても、そこにあるのはコロナ発生以前とは大きく異なる世界であることは疑いようもありません。

 昨年の緊急事態宣言解除後の8月に拙著「こぼれおちるからだたち」を刊行しましたが、言葉を書籍という形あるものに起こしてゆく作業の中で、インターネットでの言葉の発信に疑問が生じるようになりました。それは書籍の中でも語られてはいるのですが「情報に特化されてしまうことで、身体性が失われてしまった言葉に対して諦念した」ということです。
 そのような理由から、本ブログの更新を一定期間断つことを選んだのです。
 8月の書籍刊行を皮切りに、東京での個展や舞台の新作公演などを入場の制限をかけながら行なってゆくなかで、やはり会話という身体を介した言葉のやりとりの重要性を再認識しましたし、その認識は世界に変化が起こる以前には感じられなかった領域まで、私のからだに刺さってくるものでもありました。その時点ですでに、私の感覚、思考、行動は全てにおいてその基準が変化してしまっていたと言えます。

 環境の変化が、私を変えたのです。

 そう言ってしまうと大袈裟なように聞こえるかもしれませんが、少なくとも私の立っている地点(と、そこに広がる景色)を完全に変えてしまったとは言えると思います。
 たとえそれがどのような状況であったにせよ、世界や環境が変化することは、そこに生きる全ての存在に変化を促します。冬が来れば植物が葉を落とすように、世界と環境の変化は、人間の存在そのものを変化させます。それが、自然の摂理であるように。

 自然は、不自然な構造を自然な状態に修正する、自浄の力によって自らを保っている。

 ふと、昨年の暮れあたりから、再び本ブログに目が向くようになりました。
 ここからまた、言葉を発しなければならないのではないかと。そのような思いに至ったみたいです。なぜ、そのように変化したのかはわからないけれど、それを私が求めた以上、その理由はそこにあるのだと思います。

 本年は変革の年となります。
 何卒よろしくお願いいたします。

想像

 自宅で静かに過ごす時間が増えた。
 アクティブに活動することは叶わないけれど、与えられたその時間は、それはそれで悪くないものだと思う。これまで当たり前のように過ごしていた日常の方が、あるいは異常だったのかも知れないなとさえ思ってしまう。忙しさが全てではないということ。人間にとって豊かさとは一体何かということを、改めて考えることにもなっている。
 そういった意味においては、このような状況も、悪いことばかりではないのかも知れない。

 もちろん、このような思いは、私一個人の感想です。
 前回のブログにも書いたけれど、そんなことを考えている場合ではない方が大勢いるのだということに思いが至らないわけではありません。
 生きる人の数だけ、異なる状況が存在する。からだの数だけ、個人が存在するのと同じように。しかしながら、個人の集積こそが現在の人間社会を動かしているのだということに目をやるのならば、人類が辿るであろう未来は、各個人の掌の中、その想像性の中にあるのだと言える。

 人類にとって、大きな転換点となるかも知れないこの瞬間に、人は何を想像するのか。
 あるいは、これまでの人類史において築き上げられてきた社会構造には当てはまらない、全く異なった発想による、人類基準としての思考性が必要となるのかも知れない。
 それがどのようなものであるのかは、今の私には分からないけれど。

 それを、想像することは出来る。

静寂

 この国の実体が見えてきたような気がする、今日この頃。

 多くの人が現在、自らの身のおかれた状況に不安を抱えながら生活していると思います。もちろん私も不安がないと言えば、それは嘘になります。
 ご存知のお方も多いとは思いますが、6月からカンパニー新作の三都市ツアーが始まります。しかしながら、ツアー最初の地である沖縄公演が行えるのかどうか。沖縄公演の準備として今週末から一週間沖縄に滞在する予定でしたが、緊急事態宣言を受けてキャンセルとなり、並行してカンパニーのリハーサルも今のところ一ヶ月は中断としています。
 週二回行っていたアトリエとベーシッククラスも同様、事態の終息までは休講としました。

 今は、出来る限り外出を控えて生活していますが、そのような生活に転じてから数日が経ち、ふと思ったことがあります。それは、静かな生活を送ることで、どこか、からだが落ち着きを取り戻したような感覚とでも言いましょうか。
 自らの身のうちに、静けさがあるということ。そのような感覚は、ここ数年、いや、何十年も感じたことがなかったのではないかと思います。

 もちろん、不安はあります。
 しかしながら、このような生活に身をおいたことで、身のうちの静けさを発見したというのは、私にとっては少なからず驚くべきことでした。

 ここにも、静かな場所はある。
 そこでは、耳を澄ますことができる。
 深く、呼吸できる。
 その発見。

 現在のような状況下において、生活の自粛が強いられることにストレスを感じる人も多いとは思うのですが、静けさに寄り添うというのもなかなか悪くはないと思います。
 政府や地方自治体の筋の通らぬ見解や、メディアによるヒステリックな報道、インターネット上で往来する国民の我儘の数々も、静かな沼に落ちる石の礫でしかない。波紋は一度は大きく広がるけれど、沼はいずれ必ずその静けさを取り戻す。

 静寂こそが力なのだと。

 しかし、自粛したくてもそれが叶わないという方もおられるでしょう。通勤に伴うリスクを負いながらの生活を余儀なくされている方、医療従事者、ライフラインを支える方々にとっては、身のうちの静けさなどと言っている場合ではないのかも知れません。

 経済と命。
 どちらを選択するのか。
 決断は、そこを迫られている。

 二者択一ならば、選択はひとつしかないのは当り前なのだけれど。
 この国は、その逆を選んでいる。

 過去の災害から、あるいは海外諸国から、何も学ばぬ。
 心無い、虚の国。
 それが、この国の実体。

 

 

段落

随分と間が空いてしましました。
もちろん、忘れてしまったり、ほったらかしていた訳ではありません。
時おり気にしていながらも、なかなか向かうまでに至らず、気がつけばひと月以上が経ってしまった。

その間に、世間は大変な事になってしまいました。
先日近くのスーパーに行ったら、棚が一列まるまる上から下まで空っぽになっていて驚いた。「あれ、この棚何が陳列されていたんだっけ?」と思ったら、トイレットペーパーとティッシュの品切れが表示されていました。その時に欠品の原因が、流行している感染症である事を知った訳です。てくてくと家に帰るまでの道すがら「何故トイレットペーパーやティッシュが欠品になるのだろう」と不思議に思い、帰宅してからネットで調べてみて「なるほど、そういう事か。」と合点がいく。

合点がいったけど、どうも合点がいかない。
少し考えれば、今回の件でトイレットペーパーやティッシュが品薄になる事などないと分かる筈ではないだろうか。マスクや消毒液は品薄、欠品になるのは分かるけれど。。。
おそらく、そういった情報をTVや新聞等のメディアが流すはずもないだろうし、原因はネット上の偽情報とその拡散によるものであるのは、まあ、容易く想像がついたけれど。。。

なぜ、それを信じるのか。
そこが分からない。

あるいは既に、この国にはちょっとしたパニックが起きているのだろうとも思われる。
その片棒を担いでいるのが、政府の迷走政策とおざなりな発信の仕方にあるのは言わずもがな。

冷静さが、失われている。
時代かな。

さておき、更新がほぼストップしていたと言っていいでしょう。この、ねんがらねんじゅう。
何故ストップしていたかと言うと、その間、活字(文章?あるいは言葉?)に向かい続けなければならなかったからです。ねんがらねんじゅうも活字の表現ではありますが、ねんがらねんじゅうには申し訳ないけれど、こちらに微塵も意識が向けられないくらいに、そちらの仕事に向かわなければならなかった、このひと月半なのです。

もちろん冒頭で述べたように、忘れたり、ほったらかした訳ではありません。

そして、今日、晴れて(今日の天気は雨だけど・・・)ねんがらねんじゅうに向かう事が出来たという事は、そちらの仕事がひと段落した、という事でもあるのです。やっと、一息ついてもいいかなという気持ちになれた訳なのです。
それは、個人的に、とても素晴らしい事であり、心晴れやかな気持ちなのです。(今日の天気は雨だけど・・・)

そうは言っても、あくまで、ひと段落であって。
明日からまた、次の段落に向かわなければならないのでした。

次回更新は、いつになる事か。

でも大丈夫。
必ず、します。

受皿

 2020年。
 数字の並び方からして、何かしらの節目と整合性を感じる。そう感じさせてしまう何かが、今年という時の流れの切断面にはある。新たな何かがスタートするのか、あるいは既存の何かがターニングポイントを迎えるのか。それは分からないけれど。

 何はともあれ、新しい年が始まりました。
 本年もどうぞ、よろしくお願いします。
 と、ねんがらねんじゅうを読んでいるであろう、顔の見えない(もしくは、まだ出会ってすらいない)あなたへと、ご挨拶申し上げます。
 改めて考えるまでもなく、このような状況というものは既に当たり前のことなのかも知れないけれど、未だその状況には慣れないものであります。

 私は、誰に向けて、言葉を発信しているのだろう。

 もしかしたら、私以外の誰でもなく「私自身」に向けて発しているのかも知れない。いや、「私自身の中に存在している誰か」に向けてなのかも知れない。とは言え、私は自分の部屋で独り言を呟いているわけでもなく、私以外の誰も目にすることのないであろうノートに文字を綴っているわけでもない。インターネットを介して、虚実のままならない、実体の伴わない電脳世界に文字情報を残している。
 その世界に、私はいるのか。その世界は、私の存在を代替しているというのだろうか。

 まあ、ねんがらねんじゅうというこの場所(場所のようなもの)が、私の思考がこぼれ落ちるための受け皿となっていることは、なんとなく承知している。
 それでも、実感もなく、ひどく曖昧なことに何らの変わりもない。
 そこには、質量を伴った実体というものが存在していないからだ。

 ここには、質量を伴った実体はない。

 だからといって、特に困ることもない。

 

 戯言はさておき、2020年も始まって、M・O・Wではベーシッククラスと、からだアトリエも、既に新年1回目が行われました。今年も参加している皆さま、自分のからだに向けて、果てのない旅は続くといった感じです。
 また、今年はM-laboratoryの新作が、沖縄・仙台・東京の三都市を巡回します。詳細はオフィシャルサイトをご覧ください。新メンバーを迎えて初となる、カンパニー作品のクリエーションも間も無く始まります。
 さらにさらに、Works-Mでも幾つかの企画が行われる予定。こちらの様子も追々、このブログでああだこうだと語られてゆくものと思われます。

 2020年。
 今年も、誰でもない誰かに向けて、私はこの場所から言葉を発信してゆくのだ。
 こぼれ落ちるものの、受け皿として。

 よろしくお付き合いください。