静寂

 この国の実体が見えてきたような気がする、今日この頃。

 多くの人が現在、自らの身のおかれた状況に不安を抱えながら生活していると思います。もちろん私も不安がないと言えば、それは嘘になります。
 ご存知のお方も多いとは思いますが、6月からカンパニー新作の三都市ツアーが始まります。しかしながら、ツアー最初の地である沖縄公演が行えるのかどうか。沖縄公演の準備として今週末から一週間沖縄に滞在する予定でしたが、緊急事態宣言を受けてキャンセルとなり、並行してカンパニーのリハーサルも今のところ一ヶ月は中断としています。
 週二回行っていたアトリエとベーシッククラスも同様、事態の終息までは休講としました。

 今は、出来る限り外出を控えて生活していますが、そのような生活に転じてから数日が経ち、ふと思ったことがあります。それは、静かな生活を送ることで、どこか、からだが落ち着きを取り戻したような感覚とでも言いましょうか。
 自らの身のうちに、静けさがあるということ。そのような感覚は、ここ数年、いや、何十年も感じたことがなかったのではないかと思います。

 もちろん、不安はあります。
 しかしながら、このような生活に身をおいたことで、身のうちの静けさを発見したというのは、私にとっては少なからず驚くべきことでした。

 ここにも、静かな場所はある。
 そこでは、耳を澄ますことができる。
 深く、呼吸できる。
 その発見。

 現在のような状況下において、生活の自粛が強いられることにストレスを感じる人も多いとは思うのですが、静けさに寄り添うというのもなかなか悪くはないと思います。
 政府や地方自治体の筋の通らぬ見解や、メディアによるヒステリックな報道、インターネット上で往来する国民の我儘の数々も、静かな沼に落ちる石の礫でしかない。波紋は一度は大きく広がるけれど、沼はいずれ必ずその静けさを取り戻す。

 静寂こそが力なのだと。

 しかし、自粛したくてもそれが叶わないという方もおられるでしょう。通勤に伴うリスクを負いながらの生活を余儀なくされている方、医療従事者、ライフラインを支える方々にとっては、身のうちの静けさなどと言っている場合ではないのかも知れません。

 経済と命。
 どちらを選択するのか。
 決断は、そこを迫られている。

 二者択一ならば、選択はひとつしかないのは当り前なのだけれど。
 この国は、その逆を選んでいる。

 過去の災害から、あるいは海外諸国から、何も学ばぬ。
 心無い、虚の国。
 それが、この国の実体。