唯一

 2019年、大晦日

 常套の文句になってしまうけれど、やはりあっという間の一年だった。
 2018年の12月に東京に越してきて、多くの新しい出会いがあり、新しい発見がありながら、どれだけ場所が変化しても、何も変わることのないものもあった。
 この一年の出来事を幾つも挙げて、それら細部のディティールまで詳細に思い起こしてみると、全ては一瞬の出来事となってフラッシュバックしてゆく。
 本当に、ほんの一瞬だ。

 時間は決して一方向に流れている訳ではなく、現在考えられているような宇宙の事象と同じく、全方向へと拡散している。そもそもが、宇宙と時間を分けて考えること自体が間違っているのかも知れない。私たち地球上の生命と物質が起こす全ての事象は、宇宙のそれと同じものであり、厳密にはそこに内包されている。さらに、それらすべては唯の一つの存在と言える。
 そのような考え方に拠れば、森羅万象は唯一となる。

 私もあなたもない。我々も彼らもない。自国と他国もない。
 自然は脅威とはならない。危険な生物など存在しない。害獣も害虫も存在しない。
 鉱物も植物も動物も隔てられず、物質という概念すら存在しない。

 万は一となる。
 無も「無が有る」という存在性において、有に含まれる。
 全ては、有のみに帰結する。
 唯一が有るだけ。
 ただ、ここに、有るだけ。

 永遠も一瞬もない。
 故に、生も死もない。
 過去も未来もない。


 あるのは今だけだ。

 

 今年もありがとうございました。(過去への感謝)
 来年も、どうぞよろしく。(未来への期待)
 

一体

 2019年も年の瀬。
 いつもと変わらぬ街なのかもしれないけれど、行き交う人々を眺めていると、どことなく暮れてゆく年を感じるのだから不思議なものです。デパートにはクリスマスツリーと正月のお飾りが同時に並んで、季節感があるのだか、ないのだか。
 何故だかは分からないけれど、この時期になると、多くの人々が浮き足立っているように見える。
 それが、一年を十二進法に定めた世界の、ありのままの姿なのかも知れない。
 もちろん私も御多分に洩れず、どことなく浮き足立つ訳だけれど。

 このように、私は言葉を活字化し、綴る。
 そして、これは一体なんだろうと思う。

 先日、ある作家さんの個展を見に行った時に、展示されている無数の作品の中に「踊るように話す、話すように踊る」というタイトルの平面作品が目にとまった。その作品は以前同作家さんの個展に伺った時にも展示されていたものだ。その時には作品タイトルに興味は持ったものの、それほど強い印象として残らなかったのだけれど、今回そのタイトルを目にして作品を眺めた時に、タイトルが「言葉」としてダイレクトにからだに語りかけてきたような印象を受けた。

 「踊るように話す、話すように踊る」

 人間が言語によるコミュニケーションを原始形成し始めた頃と時を同じくして、踊りも始まったのだということ。言語とダンスは、それ以前は一つのものとして存在していて、例えば吠えるとか、叫ぶとか、甘え声を出すとか、叩くとか、威嚇するとか、跳ねるとか、走るとか、撫でるとか、非常に原始的な行動と、それに伴う発声でしかなかったものが、少しずつ複雑高度化してゆき、ある瞬間に、発声に伴う領域で言語が生まれた。と同時に行動に伴う領域として、踊りが生まれたのではないだろうか。
 とするならば、言葉と踊りは、もとは一つのものだったのだと考えらる。

 人類の進化における重要な局面として、言語の獲得があったのだとするならば、それは同じくして踊りの獲得でもあった。また、世界の各地域において言語が異なるのと同じように、その地域によって踊りも同様に異なる様式を持っているということも、興味深いところでもある。
 さらに現代においては、言葉とダンス、といったようなコンセプトや、振付家やダンサーが「言葉について、あるいは、言語においての表現や、思考を試みる」ような機会が多く見られ、そういった状況自体が、踊る者は無意識のうちに言葉との一体性への欲求をその内に秘めているのではないかとも思わせる。

 日本人である私は、生まれた直後から日本語による発声をからだの内に取り込み、やがて発語し、日本語を母国語として成長してきたのであるから、私のおどりは日本言語領域のもの(身体)であるのだと思われる。例えこれまでにバレエのメソッド等、海外のダンス様式を体得してきているとしても、それを始めた時期が20歳前後からともなると、それは英語の習得を20歳から始めたのと同じだと言える。それは単に習得したものでしかなく、私のからだに入り込み、私自身を構成してきたものとは若干異なる。
 バレエのメソッドで言えば、日本人ダンサーの中にも幼少期からバレエを始めた、という方も多くいる。3歳からとか、6歳からとか。例えば、現在のような英語教育を3歳から始めた日本人はどうだろうか。20歳から始めた私とは違って、幼少期から流暢な英語を話すようになることが多い。故に幼少期から日本地域以外の様式のダンスを体得している人は、その様式が身体に入り込んでいることの方が多い。
 要するに、習ったのではなく、母国語と同じように、からだに取り込まれたものなのだ。

 話を戻すと、現代のダンスの中の一つの流れとして「二つに別れた言葉と踊りを、原始へ戻すという方法ではなく、更に高次な領域において、再び一つのものにしようとする」ような状況があるのではないかと思う。進化の為の逆行として。
 しかし、そもそも何故二つに別れたのか。私にはその理由を明確に語ることは出来ないけれど、そうする「必要性」があったから、そうなったのだと仮定してみる。すると、では、二つに別れたものを、何故、再び一つのものとしなければならないのか。そして、そこに「必要性」は語られるのか。という疑問が湧いてくる。

 その理由となりそうなものに、現代の言葉からは身体が失われ、記号化されつつあるから。という、テクノロジーに関わる事象が含まれているような気がする。定かではないけれど。
 また「必要性」に関しては、それが為されたのちに、語られるのだろうと思われる。

 ともあれ、一つの衝動がそこにはある。ということは確かなようだ。

 「踊るように話す、話すように踊る」
 一つの平面作品が、私の言語空想を後押ししているようです。

 タイミングが合えば、いずれその作品を購入したいと思う。。。

発見

 先週末、M-laboratory公演「Moment of motion」を無事に終えることができました。
 この場を借りて、ご来場頂いたお客様に心から御礼申し上げます。
 ありがとうございました。

 今回の公演は女性ダンサーによる4つのソロ作品の上演という、M-laboの自主公演としては初めての企画となったのですが、4つの作品を一つの共通するテーマで創作するという意味では、所謂ショーケース的な企画公演ではなくて、オムニバス作品としての公演に寄っていたと思います。
 私の考えるところでは、連作短編の小説を読むような、そんな公演になればと考えてプログラムを構成していった感じです。
 実際に劇場リハーサルで、照明と音響が入った状態で各作品の通しを見た時に、4つの作品が一本のラインで確実に結ばれるような実感がありました。
 4つの世界をその身に内包する5つ目の(外側の)世界が、そこに生まれたとでも言いましょうか。あるいはそれは、4つの作品に通底する「テーマそのもの」であったのかも知れません。
 共通する一つのテーマは、4つの作品の種となって、そのからだの内にあるのだけど、それらの作品が繋がることで、その(からだの)外側に、テーマそのものが出現して、もう一つの作品世界を構築する。
 やはり、連作短編を読むような感覚があったのかも知れません。

 こういった創作の方法を試して、そこから多くの発見があったのは、個人的にはとても刺激的で楽しいものでした。また、4つの作品と、それらが生み出した5つ目の世界の存在は、今後の私自身の作品創作にも大きな影響を与えてゆくのではないかな、と今現在、感じているところです。
 今回のMoment of motionのクリエーション開始の少し前あたりから、次回(2020年)のカンパニー新作の構想を練り始めていたのですが、あるいはMoment of motionの創作は、そのまま次作のクリエーションに続いているのではないかと思います。いや、そこに含まれていると言ってもいいのではなかろうか。

 上演を終えたMoment of motionに想いを馳せながら、来年の新作を構想する。
 過去と未来の中間、現在に私は立ってる。

 

 最後に「Moment of motion」で上演された4つの作品。

 「生まれゆく◯」(野口友紀作品)
 「カムリノヒカリ」(宮脇有紀作品)
 「果実の骨」(田中麻美作品)
 「うつわをめぐる」(上村なおか作品)

 それぞれが、今後も上演を重ねて、育って行けるように。

営み

 M-laboratory公演「Moment of motion」の本番まで、残すところあと10日あまりとなった。
 昨日の合同リハには笠井瑞丈が来て、彼の提案により、4作品中3作品の通しが行われた。もちろん、それぞれの作品は完成の段階まで至ってはいないのだが、やはりこの時期に通しを行い、他者の目を入れておくというのは重要なことだと思う。

 一つずつ、作品を通した後にダンサー4名と瑞丈を交えて、言葉によるフィードバックが行われる。ソロ作品のクリエーションが、自分のからだの内側にある「形を持たぬ何か」「言語化されぬ何か」を客観的に捉え、それに「形を与え」「言語化し」からだの外側に放出する作業であるとするならば、放出されたものを外側から客観視するのが、それを見る者である。そしてそれは「完全なる客観性」であり、すなわち他者だ。
 通しを行なったダンサーは、身体化された行為(ダンス)によって語りかけ、ダンスを見たものは、言語化された声(発語)によってそれに応える。身体と言語は並列に存在し、それぞれが同一のものであることが確認される。

 ダンスは発語そのものであり、発語はダンスそのもの。

 そう言えば「発語することも自身の客体化である」といったようなことを、前にも書いたかも知れない。書いてないかな。
 何にせよ、瑞丈の提案と、そこで交わされた丁寧な言葉によって、それぞれの作品はさらに進化してゆくに違いない。

 既にご存知の方も多いかと思いますが、今回の4つの作品には共通する一つのテーマがあります。そのテーマは漢字にすれば一文字で表されるのだけど、その一文字から広がるイメージや感覚といったものは、あるいはこの宇宙のように広いものかも知れない。そしてその空間的な広がりは、経験や記憶によってダンサー一人のからだにうちに内包されている。ある意味で、からだの中に宇宙が内包されていると言えるのです。
 しかし、そのテーマはオープンにされるものではありません。
 オープンにしてしまうことで、作品を観るお客さんに事前に限定されたイメージを渡してしまうから。イメージが限定されてしまうというのは、作品に意味解釈を求めてしまいがちになり、どこか不自由なものになってしまうものです。あるいはそれは、何者かの都合による、恣意的な誘導とも言えるかも知れない。
 やはり、私たちはイメージの世界においては、自由を求め続けなければならない。
 表現の自由が奪われるようなことが平然と行われるこの世界に生きていたとしても、イメージの自由が剥奪されることは、あってはならないということ。と考えている以上は、テーマをオープンにすることは、イコール観るものの自由を奪うことになるのではないか。と、今回においては考えているからです。

 空想は完全なる自由のもとで行われる。

 今回のテーマは、この世界に存在する全ての人間が等しく持つものであり(もちろんこの文章を読んでいるあなたもそれを持っています)そういった意味では普遍性を持ったものです。あるいはそれは、全ての動物が等しく持つものであると言ってもいいかも知れない。それは可能性や不可能性、時間軸をも超越する象徴として、生命の営みを映し出す鏡のような存在でもあります。

 また、なぜ私が4人のダンサーにそのテーマを提示したのか。それは、とても個人的な想いから来ているので、明確に語ることは憚られるのですが、そのテーマで時間と空間を紡ぎ出すためには、このタイミングしかないのではないかと思ったことが一つ。
 個人的な理由によるものなのだけれど、私自身も、前述した「人や動物」と同様に、テーマとなる存在を自分のからだのうちに秘めている(持っている)ということ。しかし、うちに秘めていながら、その存在自体には絶対になることは出来ないということ。
 もう一つは「それが失われてしまう前に」自らの活動において、そして女性の身体において、そこに向かわなければならないと感じているからです。また「女性の身体において」という条件がある以上、このテーマでのソロ作品は、私自身には創れませんし、踊れません。
 女性のからだが、必要なのです。

 そして現在、そのテーマは一つの種となって、4人のダンサーのからだの中で脈々と動き出している。
 作品が生まれる瞬間、動き出す瞬間は、もうすぐです。

 その瞬間に、一人でも多くの方に、お立ち会い頂きたいと思っています。

worksmlabo.wixsite.com

 

狭間

 最近、美術館によく行く。
 東京には大きな美術館が沢山あって、そこかしこで気になる作家の展覧会が行われているから、美術の観覧欲は枯れることなく、常に満たされる。小さなギャラリーを含むとそれはもう、天文学的な数字になるのではないか。。。そんなことはないか。
 観に行った美術展によっては図録等も買ってしまうので、入場料と合わせるとそれなりの出費となり、後になって青ざめることも多いのですが、手元に置いておきたい図録はどうしても購入してしまう。寄稿されている文章や、作家へのインタビューなどを読むのも面白いのだけど、やはり、展示されている作品を観て受けた衝撃や印象感覚のようなものを、図録に収録されている同じ作品の写真を眺めることで、自宅にいながらにして再現させることが出来るのが楽しくてたまらない。
 他者の作品を観て楽しむというのは、その作品を観て自分のからだに起こってくる感覚の現象のようなものを楽しむことなのかも知れない。だとしたら、人は常に自分のからだを楽しんでいるのだろうと思う。

 自分のからだを楽しむ。

 それは踊ることと一緒だ。

 そんなこんなで、私自身の創作においても、美術的な要素がむくむくと膨らんできている。
 さて、どのように現れるのだろうか。

 前回の記事の最後に、予告のように記した「物質とイメージの狭間でバランスをとる」ということ。
 人のからだの中には、その人独自のイメージというものがあって(それは言語的なものであったり、視覚的なものであったり、聴覚的なものであったり、触覚的なものであったり、、、要するに言語や感覚によるものなのですが)そのからだの中のイメージというものには、まだ形もなく、器も与えられておらず、混沌として、有機的な状態なのだけど、それを物質化することで、イメージは形を纏い、あるいは器に入った状態になる。その、物質化された状態というのが、言語(文字)であったり、絵画や立体、画像、映像であったり、楽譜であったり、ダンスであったりする。
 文字や楽譜や一部の絵画は紙という素材にインク等で物質化されるということ。絵画は、キャンバスに油絵具等、立体は木材や鉄や石や、なんやかや。画像、映像は、写真なんかは紙にプリントされたりしますし、現在の画像、映像はデータ化され、何がしかのハード機器にその姿を写す。ミクストメディアの表現も同様ですね。
 要するに自分のからだの中にあるイメージというものは、物質化されて初めて他者に伝わるということですね。いやいや、発語があるじゃないか。発語による表現は物質化ではないじゃないか。と考える人もいるかも知れませんが、、、。私はそうは考えません。確かに発語そのものはイメージの物質化ではないかも知れませんが、発語する本人の声帯や口角、顎、舌、口蓋、喉などの体が動くことによって発語される以上、その人の身体化が前提にあるわけです。からだという物質に変換されて初めて、発語は行われる。ということで、発語もイメージの物質化と言えます。
 そして、ダンスも発語と同様の表現方法をとっていますね。発語は相手の聴覚に主に働きかけますが、ダンスは相手の視覚に働きかける(主に)。
 その考えによると、全ての表現はからだの中にあるイメージを物質化する人の、そのからだによって行われるので、物質化イコール身体化とも言えるのかも知れません。
 イメージを絵画という物質に変換する作業は、その人の眼球と筆を持つ手と腕によって行われるし、楽譜や文字に変換する人も同様、鼓膜や眼球と、筆を持つ腕と手(現在はキーをタイプする指かも知れませんが)によって行われる。立体彫刻なども同様。

 身体化=物質化

 ダンスも自らの内的世界やイメージを、自らのからだ(とその動き)へと変換する行為であるわけですが、そのイメージと、イメージするための存在(私の意識)が、物質化されるところの身体と同居している(同一存在である)ところが、多少難解なところですが、前述したように、発語に近いと思います。

 全てのイメージは物質化されることによって表現され、表現という行為を伴って、それを見る者、聞く者、感じる者へと伝えられる。そして、伝えられた相手(他者)のからだに入った瞬間に、それは再び、その人のからだの中のイメージへと変換される。
 そこで、イメージの共有は果たされる。

 随分と面倒で退屈な理論化で、読んでいる途中で興味を失った方も多いかと思います。が、イメージは物質化されることで、初めてその役割を果たすのだと思うと、どうにも活字化(物質化)せずにはいられなかったのです。
 そうしなければ、それはずっと私のからだの中にありながら、混沌としたまま、いずれは忘れられ、失われてしまったかも知れないので。

 イメージを物質化する時に、その二つの狭間の、どの地点に着地させるかということが、その人の感性ということになるのでしょうか。
 着地点によっては、これまでにない新しい(アヴァンギャルド、あるいはコンテンポラリーの)表現になるし、あるいは古典的、伝統的な表現になっていったり、古典や伝統の形を纏いながらも新たな表現の境地に立ったりするのかも知れません。

 その、バランスを「今」という時に対峙させて見極めることが、問われている。
 それは身をもって「今」を物質化するということなのかも知れない。

 と、いったあれやこれやを、美術館に置かれていた、無数の作品たちが教えてくれたのです。
 やっぱり、美術が好きなんだなと思う。
 まあ、私の場合ダンスも美術も同じものなのだけど、最近はダンス観賞よりも美術観賞に引力が働いているようで。。。
 身体性のない(一部の)ダンス作品を眺めるよりも、身体性のある美術作品を眺めている方が、いいに決まっている。

 と、いったところなのかな。

粛々

 前回の更新から一ヶ月以上が過ぎてしまいました。
 この一ヶ月間、パソコンの前に座って作業をしながら、時折、ブログの更新に想いが向かったこともありましたが、結局実際に更新されることはありませんでした。。。
 その間、パソコンに向かう作業は、楽曲製作と映像編集にほぼほぼ費やされたと言っても過言ではありません。それに加え、撮影場所の選定、ロケハンから始まり、都内某4カ所で4人のダンサーの撮影があったりして、まあ、私のお世辞にも広いとは言えない仕事の許容範囲から、ブログ更新の作業はあれよと言う間に押し出されてしまい、今日までデスクの端っこに転がっていた訳です。
 そして、今日それを拾い上げた。

 撮影や編集、楽曲などは11月に中野で行われるM-laboratory公演「Moment of motion」のプロモーション用のもので、こちらのPVは明日明後日にはカンパニーのオフィシャルサイトで公開されるのではないかと思います。そうなんです、そのPVが公開になるということは、イコール、晴れて編集作業を終えたということです。
 だから、デスクの端に転がったまま放置されていた、ブログ更新に気が付いた。
 と、いう訳。の、言い訳。

 9月はそのようにして、なんだかんだと忙しくしていた訳ですが、もちろんその間にも「からだアトリエ」と「ベーシッククラス」は毎週行われていました。
 アトリエにしても、ベーシックにしても、継続して参加している人たちの変化には、目を見張ることが多い。さらに、アトリエはその日に参加しているメンバーによって、驚くべき瞬間に立ち会うこともあります。その瞬間というのは、このブログで活字に変換できるような、あるいは言葉に出来るようなものではありません。
 が、あえて。。。

 「例えば、一人で海岸線を走る電車に乗っていて、車窓から海に落ちかけている夕日を眺めていたら、どこかからジャニスジョップリンのサマータイムが微かに聞こえてくる。そのような状況に自分のからだが置かれている事実に気づくことによって、自らの意思とは関係もなく、そして全く理由もなく、涙が流れてくる。」

 ほらね。例えて活字化してみても、なにも驚くべき状況ではない。どちらかと言えば、陳腐な言い回しになってしまっている。(それは、私の文章力の稚拙さを、そのまま現しているだけかも知れないけれど。。。)
 でも、あの時アトリエにいた人たちであれば、少しは共感出来る人もいるのかも知れない。からだの動きが生み出す、驚きの瞬間を。
 そのように、毎週、からだアトリエとベーシッククラスは粛々と、そして確実に、からだによる世界の気づきを伴いながら、進められている。
 ちなみに、10月11月は、期間限定で初回受講者一回のみ500円割引になっているそうです。詳しくはこちらもサイトをご覧ください。

 しばらくぶりの更新なので、書きたいことが沢山ある。
 けれど、今日はここまでとしようかな。
 「物質とイメージの狭間でバランスを取る」ということについて、書こうかな、と思っていたのだけど、書き始めたらとてもとても、長くなってしまいそうだから。。。

 次回更新までに、もう少し頭の中でまとめておく必要もありそうだ。

 

 そのようにして、ねんがらねんじゅうは、ねんがらねんじゅう然として、更新されたりされなかったりしながら、この訳の分からないネット世界での漂流を続けることになるのだ。

変身

 遠くから花火の音が聞こえてくる。
 けれど、花火の実態は眺めることが出来ない。
 どこか、遠くで、打ち上がる花火。

 ふと、夏の終わりの到来を思う。

 あと一週間、もう少し、夏が続いてくれたらと思いながらも、何故こんなにも夏に執着するのだろうと、我ながら不思議に思う。
 10代後半から20代にかけては、どちらかと言えば、夏は嫌いな季節だったはず。冬の身の引き締まるような寒さに、コートのポケットに両手を突っ込んで歩くのが好きだったのだが。30代あたりから逆転したような気もする。海水浴などは子供の頃に行ったきり。普通ならば10代、20代あたりには、夏の遊びを謳歌するのだろうけれど、私は夏でも日焼けもせず、青っ白い顔をしていました。。。ところが、30代には海水浴などにも行くようになり、その頃ふと、冬よりも夏の方が好きになったんだなと思ったものです。
 この10年は海水浴などに行くことはなくなりましたが、夏になると海に行きたくなり、車で海岸線を走ったりはしています。
 夏が好きなのだ。正確には、夏の風情が。
 もちろん、冬が嫌いということもありません。夏には夏の、冬には、冬の風情があり、それを味わうことで、からだは喜ぶのです。

 季節は気がつかぬうちに少しづつ巡り、気がつくとその変化に驚かされます。
 人のからだもまた同様、気がつかぬうちに少しずつ変化し、気がつくと大きな変身を遂げている。まるで、さなぎから羽化する蝶のように。
 昨日のからだアトリエでは人のからだの、変身の瞬間を垣間見ることが出来ました。
 からだの内に秘められた自己、あるいはからだの内に閉じ込められた内的世界が、踊ることによって、外側に飛び出してくる瞬間。その変化は日々目にすることの出来るものではなく、まさにさなぎの中で変態する蝶のように、突然眼前に現れるものです。おそらくは、そのさなぎ的身体の中で、その人は長い時間をかけて、変身しているのだろうと思います。
 日常的身体から、表現物としての身体が立ち現れるその瞬間は、からだの内側と外側がひっくり返るような感覚を、見ている者にもたらします。からだが思考から解き放たれ、自由に舞い始めるその瞬間は、ある意味においては神秘的でもあって、それは生きる物体としての、生命の神秘とも言えるのかも知れません。

 はたと、文字を打つ手を止めて読み返してみると、その場に居合わせなかった方が、この文章を読んでも「何を言っているのか?」と思われるかも知れませんね。
 でも、そのような瞬間は、起こるのです。確実に。

 文章化も、映像化も出来ない、その瞬間の共有。
 それが、ダンスの力なのかも知れません。

 変身を遂げたからだは、そのからだを所有する本人の強い意志によってのみ存在しています。そしてその意志は、生きるということを、からだによって伝え巡ってゆくものなのだと。そう、思います。

 季節が巡るように、からだは移ってゆく。