欠片

今週末に迫ってきたM-labo新作「あなたがいない世界」の関連ワークショップが、昨夜行われました。
受講者は6名。「ちょっと少ないかな」とも思ったけれど、ワークをしてみて、ちょうどいい人数だと思った。それは内容の濃さに比例していて、この内容で、それ以上の人数になると、受講者一人一人の体感が逆に減って行ってしまうものだ。時間に対して体感が減ってゆくということは、総体的経験量が少なくなるということで、それはワークショップ受講料の単価に関わってくる。それはそれは、由々しき問題となってしまう。

ともあれ、昨夜のワークショップの3時間は濃密であり、濃密であるが故に、あっという間に時間は過ぎて行った。

冒頭、自身のからだの重心に目を向けることで、自重を体感するワークを行ったのだが、私自身何度も行なってきたワークにも関わらず、突然冒頭から声を出して唸ってしまいました。

何故か。

既に、クリエーションが始まってしまったから。
彼らのからだから。

と、言ってもこのブログを読んでいる方には伝わらないかも知れませんが、その場にいた方ならば、その瞬間の空間の立ち上がり方は思い起こされるはずです。

そして、ペアワークに入って、また唸る。
この感じは、一体何なんだ。

今現在、今週末に本番を迎える作品のクリエーションで、私自身は飽和しているというのに、創作への刺激、あるいは欲求とでも言うのだろうか。そんなものが、沸々と湧き上がってくるのを、抑えることが出来なくなってしまう。

何故か。

それは、参加したメンバー個々の存在と、その組み合わせが絶妙だったからだ。
そのからだの在り方が。

今回のワークショップは新作のクリエーションに取り入れてきた方法論の一部を使って、短いピースを作るところまで。というものだったのだけど、私自身としては、もう一つ別の「あなたがいない世界」の欠片のようなものを採取出来たと思っている。
こんな時は、受講された皆に感謝せずにはいられない。

ありがとう。

その欠片は、壊さぬようにそっと拾い上げて、ポケットにしまっておこう。
いつか、それをまたポケットから出して、少しずつ組み上げて行きたいと思う。

塊り

思考が後回しにされた身体は、無意識です。
身体が後回しにされた思考は、意識過剰です。

ただ、どちらも自然にそこにあって、それほど悪いものでもないけれど。

無意識は、それを意識するまで踊ればそれでいい。
意識過剰は、意識を失うまで踊ればそれでいい。

一見、バランスの問題のように思えるけれど、それは違う。
それらは、もともと、一つのものなのだから。
ひと塊りであるものに、バランスは必要なく、本来必要なのは重心だ。

身体は常に思考している。
思考しているのは常に身体だ。

意識はその、ひと塊りにのみ宿っているよ。

有無

M-laboratory新作公演「あなたがいない世界」上演まで、残すところ10日となった。

この作品を創るきっかけとなったのは、前作のM-laboデュオ作品「いなくなる動物」と同様、とある出来事に起因している。

「いなくなる動物」は2016年にアイスランドで射殺されたホッキョクグマの一個体と、その出来事を起こす原因となった環境が発端となっていたが、今回の作品は「動物」ではなく、ある意味において限定された「ヒト」が発端として、私の中にある。
そして、その「ヒト」は、この作品には実存としては存在していない。
実存としては存在しないけれど「いない」ものとして、存在している。

舞台作品は、舞台上作品世界に存在する(出演者側からすれば)私と、その作品世界を鑑賞するあなたによって成立する。あるいは、(観客者側からすれば)舞台を鑑賞する私と、作品世界にいるあなたによって。
私とあなた。実存としては二人称で成立しうる。

しかしながら、創作過程において、私とあなた以外の、三人称(彼、彼女、あの人)の存在を中心にしてみると、実存としてそこに存在するダンサー(演者)や客席に存在する観客よりも、そこに「いない」誰か、不在としての存在の方が重み増してくる。

いないことの、重み。

さらに、それは「存在する実存」と「不在としての実存」の両極に対して、ある問いを投げかけてくる。

「いる」でもなく「いない」でもない。
「ない」もの。

「無」とは。

このような形而上学的な思考は、まさしく「動物」ではなく「ヒト」の発想であり、やはり、今回の創作の発端は「ヒト」にあったのだなと、クリエーション終盤になってきたここ数日、改めて感じているところである。

無いものは、有るのだ。
などと、簡単には言いたくないし、言うことなど出来ない。
が、からだは、それを感じているのかも知れない。

無いものも、有るのだと。

 

言葉

新作「あなたがいない世界」上演まで二週間。

クリエーションはぼちぼち佳境を迎えようとしている。
この作品に取り組もうと決めてからこれまでに「いない」という現象について、あらゆる状況から、からだで考察を重ねてきた。それは時に航行する船の羅針盤を狂わせ、時に座礁しかけ、時には荒波に船体を激しく揺らすような作業だった。そしてそのような日々は、これからまだ数日は確実に続く。

くたびれた船が向かう先は、あなたがいない世界である。

クリエーションに向かう時、大抵の場合は作品のイメージテキストを書き起こして、それをクリエーションメンバーに渡して、イメージの共有と個々の掘り探りといった作業を行うのだけれど、今回の作品では書き起こしたテキストはメンバーに渡していない。

伝えるべきことを文字にして渡すという行為は、それなりに効率がよい。わざわざ全員集まって伝えるための時間を作らなくとも、それを渡された人が都合の良い時に、都合の良い分量を読み進めればいいから。そして、テキストを紛失しない限り、書かれた内容の時系列を自在に行き来し、選別再読することも可能だ。聞き逃す、という状況は起こらない。それはそれは、紙に書かれたテキストとは便利なものなのだ。

しかし、例えばそれをメンバーが自宅で読む時、そこに私はいない。

前もって紙に書かれたテキストというものは、いついつ、誰彼に渡すかを前もって決めることが出来て、その為に用意されたものとなる。しかし、例えば紙に書かれたテキストを渡さずに、その内容を全て言葉(口頭)によって伝えるとしたら、それはかなり時間と労力が必要とされる作業となる。しかも、そこには伝えるべきタイミングというものも関わってくる。伝えるべきそのタイミングにメンバー全員が居合わせるとは限らない。さらに、居合わせることが出来なかったメンバーに伝えきれなかったものを、改めて伝えるタイミングが再びやってくるとは限らない。そのタイミング如何によっては、ある人には何も伝わらない可能性だってある。

生きた言葉を完全にコントロールすることは、なかなかにして難しいのだ。

しかし、それでも私は書面を捨て、言葉に頼る。
なぜなら、私が言葉を発する時、私はそこに確実にいるからだ。(電話を除く。)そして、それを聞く者も、確実にそこにいる。(電話を除く。)そして、例えば、そこに居合わせることが叶わなかったメンバーがいたとしたら。そこには、いない人が、いるのだ。

いないということを考察し、からだから実践すると、一つのパラダイムに至る。

今、ここに、いない、が、いる。

そして同時に一つのパラダイムシフトが起こる。

いない。は、いる。を前提として(それを経過して)起こり得る現象ではある。
しかしながら「生まれ得なかった命」は、その前提(や経過)を覆す。

もともと、いない。という存在として。

 

 いない。は欠落ではない。存在なのだ。

 

ちなみに、この言葉は、一つのテキストとしてインターネット上に残るが、ここには、私はいない。

 

 

時間

M-laboratory。

カンパニーを立ち上げて(注:当初はそこまでの気概があったかどうか、定かではないが。若さもあったし。)第1作目を発表したのが1999年の10月。7年間の活動停止期間を挟んではいるが、今年で立ち上げから20年目ということになる。勿論、長くやっていればそれでいいと言う訳ではないけれど、長くやるためにはそれなりの体力は必要とされる。

特に、20年という時間を、立ち上げ当初から現在までほぼ同じメンバーと共にすることが出来ているというのも、個人的には奇跡的と言う感じがする。今となって想うのは全ての作品創りをメンバーが担ってくれていて、私はただ、いつも駄々をこねる子供のように「創りたい。」と言い続けてきただけなのだ。

ある意味において、私は、彼らがいなければ、何一つ出来ないのだとも言える。
逆に、彼らは、私がいなくても、何でも出来るのだとも。

とは言え、時間というものに比重があるのだとしたら、20年という時間は空気よりは重いのではないかと思う。長い時間というものは往々にして澱のように空気の下層に溜まってゆくから。あるいはそれは、知らぬ間に部屋の隅に現れる埃の塊のように存在している。
時の澱。
時の塊。
その存在は時間と重力との関係に起因するのかも知れない。

私は今、不確かな重力を感じている。
時間の、重さを。

その不確かな存在が、私を「あなたがいない世界」へといざなったのかも知れない。
それでも「創りたい。」と言うことしか、私には出来ないのだ。
それが、重ければ重いほどに。

 

音楽

四半世紀前あたりから、国内においても無音×即興×ソロといった公演があったり、ラジオ放送を音楽として使用したり、DTMが台頭してきたり、その他諸々、ダンスに対しての音楽の捉え方というものが実験的に解体されたり、再構築されたり、抽象化されたり、脱構築されたりし始めたのではないかな、と私は感じているのだけど、それは単にその頃から私が頻繁にダンス作品を見るようになったというだけのことなのかも知れない。

若かりし頃、二十歳そこそこの私は当時目黒にあったアスベスト館で、とある音楽家に「音楽があるから踊るのか」「踊ることで音楽が生まれたのか」といったようなことを質問したことがある。

その質問に対して、その方はこう答えた。

「どちらかではなく、からだが先にあります。」

と。

それから30年近く経とうとしている今、ダンスに対しての音楽的アプローチというものは多様性を極めているような気がする。さらに、その多様性のあり方はそのまま「音楽とは一体何なのか。」という不可解なものに対するシンプルな知的欲求(あるいは身体的欲求)を刺激してやまない。

ジョンケージが4分33秒を作曲した1952年から67年。

私はその曲に自らのからだの音を聞く。