信じるものとは
このようにブログを更新する。不定期的に不特定多数の人に情報を発信するということにどのような意味があるのかは分からないけれど。このようなツールがあるから使っているだけと言えなくもない。
僕はネットによる言語の情報発信は意識的に控えるようにしているのだけど、世界はもっと目まぐるしいスピードで個人的な情報のやりとりや、その共有が行われていることは知っている。それでも、Facebookやtwitterの類のSNSに参加する意思は今のところまだない。そういったやりとりは便利であるけれど、疑いの余地がまだ残されているからだ。
世界各地で起こっている紛争や事件を見ていればその疑いは一目瞭然だ、と言うことは言うまでもないことなのだろうけど。
その状況は核エネルギーの平和利用に似ていなくもない。まあ、似て非なるものでもあるのだけど。
情報化社会といったものが今後どのようなバランスで推移して行くかも分からないけれど、おそらくはその比重はこれからの世界に於いて非常に重くなってゆくことは間違いない。
でも、僕はまだ信用しない。
その存在が、人を殺す可能性があるから。
逆説的には、それが存在しなければ死ななくて済んだ人だっているかも知れない。
車社会においては時にはブレーキをかける必要がある。なぜなら交差点の信号機が赤だから。
しかし、情報化社会というものにはまだ信号機がかけられていないようだ。要するにそこにはルールがないから。多くの人はそれを秩序と呼ぶけれど、果たして世界はそれを欲しているのだろうか。
記号化された言語や情報共有よりもそれを発する感覚器官である身体に、あるいは退行するように進んでみる。それが、自分を取り巻く状況をどのように変化させるのか。試してみるのもいい。
テクノロジーは世界の状況を加速度的に複雑にしているように見えるけれど、何にも増して複雑である人の身体というものをただただシンプルに眺めて生きる。小石を手に取って眺めるみたいに。
そんなことを洗濯物を取り込みながら考える、春待ちの日。
このように、
少しづつ
年老いてゆく。
ずっと変わらない。