意味のないところに打診はない

 年が明けてほどなくしてから、一つ思索している事がある。それは場に対する身体のあり方、あるいは置き方のようなものに関する問いかけである。それは近年の自分の活動の流れからすれば極めて自然な着地点であると自分自身では納得している。ただ問題はそれを実際に具体化してゆく為に、どのような方法が考えられるだろうかというところにある。
 
 
 
 文章に置き換えてみると、意味不明ですね。
 
 別の方向から話を進めてみようかな。
 
 
 今の日本でダンスをするという「行為」は、図らずともそれが行われる「場所」というものに拘束されているのではないかなあ。と、やんわりと、しかし確実に思う。コミュニティーという言葉とその定義には問題はないし、そこでどんなダンスをやっても勿論構わないのだけれど、どこかでその場というものを客体化しておかないと、内向きの目線に移行してゆくような気がしてならない。
 そもそもコミュニティーとは何か。小さな村や町内会もそうであれば、一つの都市において同じ目的を持った特定の人間の集まりも漠然とその中に分類される。強いては国家だって一つのコミュニティーであると言えるし、更にはそれは既にインターネットの中にもあって世界的規模のコミュニティーだって存在するのだ。
 目線を内向きに持つか、外向きにするか。その双方向のバランスが大事なのだけど、ダンスをするという行為にあってそれは微妙にバランスを失っているようでもある。
 足下ばかりを見ずに、周りの景色を眺める事だって必要なのだ。

 
 
 別の方向から進めても、話はかえって意味不明になりますね。
 
 
 総じて。
 
 そんな意味不明な思索に耽りながらも具体化の方法として試しに一つ初めてみたのが「打診」するという事。
 
 「打診」
 1、(医)からだを指でたたき、その音で内蔵を診察すること。
 2、(ようすを)さぐること。

 辞書によると上記のように記されている。
 
 
 
 意外に具体化の方法としては間違っていないのかも知れない。
 
 
 ただ、今日の記事ほど、読者にとって意味の通らないものもなかろうな。ははは。