移動する思考

 Works-M Vol.5「在/不在」の高梁での展示が始まって何気に忙しい。それというのも自宅から高梁の会場まで車で1時間半ほどかかるからかも知れない。道が込んでいたら2時間とか、それ以上かかってしまう事もある。片道1時間半という事は往復にすると3時間。当たり前だ。しかし、一日のうち3時間を日々移動に費やすというのは少々堪えるところもある。東京に勤める会社員が郊外の自宅から数時間かけて会社に通勤するというのも、それなりに大変なのだろうなあ。と、人ごとのように思う。やはり彼らは場合によっては何かをすり減らせて生きているのかも知れない。人にもよるとは思うけど。
 
 話は変わるけどここ数日「それをする意義」といった事について考えさせられてる。何故それをしなくてはならないのか、何故それでなくてはならないのか。何故そこでやるのか、何故その時でなくてはならないのか。
 個人的には多くの場合それは直感的、感覚的に生まれて、それが生まれた瞬間に同時にそれらの問いに対しての解答も生まれているような気がする。個人的には。
 しかし、例えば何かの企画に自分の作品を乗せるような場合は企画側の「それをする意義」が見えてこないことにはあまり前向きに思考する事が出来なくなる事もある。おそらくそれをする意義が形骸化してしまったものには、あまり興味が湧かないからだと思う。これまで何度かそんな思いに至る事があったけど、それは東京でも地方でも同じ事が言えるのではないだろうか。更にはそれは今に始まった事でもないし、逆説的に言えば悪しき風習としてそれらが守られている場合すらある。
 何故そうなるのか、そうしなければならないのかは僕の理解に及ぶところではないけれど、あるいは意義の形骸化とはそうなる事にすら意義というものを持ち備えていないのかも知れない。
 出来る事ならば人々が興味を持てるものを、作り続けたいと思うだけなのだけど。
 
 高梁での展示は天神山に比べると来場者数が少ないな〜と思う。でも、見てくれたお客さんの反応はどちらも変わりなく興味深い。数の問題ではないよね。
 展示会場が変わる事で色々な環境が変化したけれど、あの場所で作品と出会って対峙してくれる人達は、常に変わらず「それをする意義」を持ち備えているからだと思う。

 
 
 
 
 高梁までのロングドライブの途中で、移動販売のホットドッグ屋さんを発見。今度食べてみようかな。