エアコン

 昨日今日と岡山は真夏のような暑さ。自宅二階の仕事場は屋根が太陽に焼かれて蒸し風呂状態。節電節約を心がけるも、ついついエアコンのリモコンに手が伸びてしまう。ほんの少し、部屋を冷やして考えてみる。
 幾つかの事柄の点があり、それらの点が一つの時間軸にそって直線となって進んで行く。そしてそれは幾つかの平行線になる。僕はその無数の平行線の間を縫うようにして、流線型を描きながら時間軸を進み続けている。もしくは逃げ続けている。僕は何かからの脱走をはかる。退屈、もしくは完成。
 ダンス作品は時間軸の中においてのみ為し得る表現であって、写真や小説や絵画などのようにある媒体の中に作品を留めることが出来ない。ビデオで見るダンスは、ダンス作品ではない。記録だ。もちろん記録された上でのダンス作品という考え方もあるにはあるのけれど。やはり、ダンス作品は日常の実時間において作品時間を見るものに強制する。始まり、流れ、去り、終わる。
 ダンス作品は絵画や写真のように額に入れて部屋の壁に飾る事も出来ないし、書物のように書棚に並べる事も出来ない。終わってしまえばそれは、見た者の記憶の闇に澱のように溜まってゆくだけだ。形としては残らず、場合によっては消滅してしまう事だってあるかも知れない。
 だからこそ、そこに本質がある。人が生まれて、生きて、やがて死ぬように。
 死がいつもすぐ隣にあるように、ダンスもすぐそこにある。
 さて、エアコンを止めよう。