揺らぎ

桜が咲いている。

今年も春がやって来たということか。
何度目の春になるだろうと、ふと考えてしまうけれど、そのような考えはすぐに消し去ってしまおう。春は常に新たにやって来るのだ。昔の春もなければ、未来の春もない。春はまさに、今ここにある。

それだけでいいではないか。

本日、夕方からの打ち合わせを終えて、毎週行っているからだアトリエへ向かう。
新たに参加する人、古くから参加している人。計6名。皆、ワークの中ではっとするような動きを見せる。それは各個人の内に秘められた力とも思える。その力が、一体何によって形成されて来たのかは知る由もないけれど、ただ、現前のものとして、踊りがその力を表出させる。

言葉にするのは非常に難しいけれど、それは「生きる」という事を体現することであるのかも知れない。ただ、そのような言葉では言い尽くせないものでもあるのだけど。

3月のアトリエは以前本ブログに記したように、からだの先端部分である手足の指を動かす事から始めて、徐々にからだのコアを動かして行くといったワークを続けている。
日常生活においても踊りを踊る時にも頻繁に活用される手の指ではあるのだが、運動ルーティンとして動かして行くと、皆なかなか思うように動かせず、困惑することもあるようだ。
普段は無意識にコントロールしていると思われるし、動かす事に対しては何の支障もなく感じている手の指ですら、通常では行わないような動きにおいて、それを意識しようとすると、うまく動かない。踊るからだは常に、意識と無意識の間で震えながら揺れているのだが、実は意識そのものを取り払うことが出来れば、その揺らぎは収まる。
そして、意識を取り払う為に必要とされるのは、感覚に他ならない。

意識を捨て、感覚に頼る。

身体意識ではなく、身体感覚を捉えてゆくことで、逆に意識そのものをコントロールする事が出来る。
表現者にとって大切なものは、意識より感覚なのだと言える。

勿論、からだで表現する以上、無意識を意識化するという作業も大切ではあるのだが、それは一つの通過点としてあって、その先にあるのはやはり感覚で意識を操るということになるのかも知れない。

たった10本の指ではあるけれど、そこに宿る感覚は計り知れないものがある。

会話

会話について。

先日、ある人に会いに日暮里に行った。目的は、話すため。
日暮里から谷中へ向かい、谷中銀座の裏あたりのカフェで色々と話す。
その界隈へは岡山に引っ越す前にはよく訪れていたのだけど、10年ぶりに訪れてみると結構街並みが変わっていることに気づく。まあ、10年だから。変わるよね。
その変化の気づきは、ある人と話すためにその場所に行くことによって起きたと言える。
会話が、場所を選んだのだ。

30年ほど前までは、人と会話するためには、その人と会わなければ成立しなかった。会話のためには、ある特定の場所が必要とされていた。同様に電話での会話も、当時は家にしか電話がなかったので、誰かと会話するために電話をかけるにしても、その人の家という限定された場所を必要とした。ちなみに公衆電話はあったが、その利用は専ら発信する側として存在し、受信する側はやはり家や会社といった場所に限定されている。
話している時には、相手が何処にいるのかということを、互いに了解していたのだ。
会話と場所を切り離すことは出来なかったと言える。
しかし、携帯電話の登場によって、会話は場所から切り離されることとなる。
相手が何処で何をしているかを知らなくとも、その人の携帯に発信すれば会話は成立するようになる。さらには、インターネットの普及によって、海外の人とも簡単に会話が可能となる。会話は、地球の大地から剥ぎ取られたように、場所という概念を失いつつある。

会話が場所から切り離されたことは、時間にも影響を及ぼしている。
携帯電話を持つ全ての人が感じていることだと思うけれど、人は常に会話のために時間を用意しておかなければならない。いつ、誰から、携帯に電話がかかって来るか分からないのだ。前述の30年前であれば、電話がかかって来るのは限定された場所にいる時だけであったが、現在は違う。場所を限定せず、いつ何時も、会話は突発的に起こり得る。
また、会話のために、限定された場所に向かう(会って話す)という行為は、移動のための時間を必要とするが、携帯電話での会話は移動時間すら必要としない。

時間と場所は切り離されることなくそこにあるが、会話だけが乖離してしまった。

便利な時代なのだ。
しかし、往々にして便利なものは、深みや趣が失われがちになる。

10年ぶりの谷中の街並みと、一人の男との会話が、それを教えてくれた。

時代

花粉。
先日記したような重症は1日だけで済んだものの、日に数回、突発的に症状が現れる状態が続く。まあ、慢性化しないだけましとは言うものの、くしゃみが7回、8回と止まらずに連発すると、直後に「花粉め。」とつぶやいてしまう。

とは言え、春がやって来るということで、寒いのがあまり好きではない私にとっては、堪えどころといったところでしょうか。

そのようにして、この国の季節は巡っている。

そして数ヶ月後に、この国の時代が変わる。

元号が変わることで、何が変わるというものでもないのだけれど。それはどことなく正月に似ているような気もする。何が変わるというものでもないけれど、確実に何かが変わる。例えば、硬貨の年号表記がそれを物語るように。あるいは、Hey! Say! JUMPは過去のものになってしまうのだろうか。。。

ここのところ、私自身が舞台活動を始めてからのアーカイブを整理するために、古いものから目を通しているのだけど、やはり「時代だなあ。」と思ってしまうわけです。
コンテンポラリーダンスというジャンルで考えると、近いところでは90年代あたりが大きな過渡期にあったのではと、個人的には思うのだけど、もちろんそのような表記が一般化される以前に70年代、80年代にも、大きな過渡期はあった。そして、2000年代に入るとコンテンポラリーダンスというジャンルは一気に拡がってゆく訳ですが。。。

では、現在は?となると。
やはり、過渡期なのです。

コンテンポラリーという名称である以上、常に過渡期なのです。
同時代性ですから。いや、同時間性、と言ってもいい。

そこで、一つ疑問が生じるのです。

同時間性にありながら、常に過渡期、常に前衛である状態、要するに変化し続ける状況下において、それ自体を「時代」という区切られた時間解釈によって限定することなど、可能なのか?
現在を「○○時代」と呼称した時点で、既にそれは過去のものとなってしまうような世界においてコンテンポラリーは、モダンや、ポストモダン、ポストポストモダンのように、過去のムーブメントの呼称となり得るのか??
言語化より先にある身体表現であるが故のコンテンポラリーダンスに、時代が追いつく事など可能なのか???

疑問符いっぱいですみません。。。
強く主張したい訳ではなく、ユーモアです。

兎に角。
おそらくは、同時間性、あるいはコンテンポラリーとは、現在のみに存在するのではなく「過去によって形成されうる今」のことを言うのかも知れないなあと。
単純に、今、だけを追いかけているのでは、もう、ダメなのかも知れないとも思う。今、を追いかけているという状況は、まさに、今に追いついていないからであって。
舞台芸術そのものが、時間芸術としてある以上、時間の存在は今だけではない事を認識しなければならないのだなと、そんな風に思います。

何にせよ、やがて、新たな時代がやってくる。
その時代を形成しているのは、過去の全てを背負った現在なのだ。

時間は流れているのではなく、降り積もっている。
いつもその上に、私たちは立つ。

指先

今日突然、花粉症の症状が現れる。
10代の後半までは、ひどい花粉症に毎年悩まされていたけれど、20代に入ると何の予兆もなく突然症状はどこかに消えてしまった。それまでの毎年が嘘のように、鼻は通り、意識明晰の春が訪れ、かれこれ、二十数年が経ったのだが。
今朝、目覚めて、鼻水が垂れてきたので、鼻を擤む。気がつけば、喉もやられていて、目は涙で半ば濡れている。くしゃみの連発。そして、鉛のように頭が重い。

瞬間、風邪か?と思ったが、その思いは、ある確信によって直後に否定された。

花粉だ。

ということで、使いかけのティッシュボックスは、午前中のうちに空となった。
午後からは、曖昧な思考に加えて、軽い首肩の痛みと関節の鈍痛が加わる。
私に出来ることと言えば、鼻を擤み続けることと、慢性化しないことを祈るだけだ。

どうか、突発的な症状であって欲しい。。。

さて、そのようにして私は、ティッシュを鼻に突っ込んで、ブログに向かってキーをカタカタと打っている。曖昧な思考を両肩の上に背負い込んでいても、かろうじて指先は繊細に動く。

指先について。

昨日より、武蔵小金井で始まった「からだアトリエ」は、指先(末端)の意識がつくる総体の身体といった内容から始めてみた。もちろん、踊るからだは皆、無数の質感を有しているのだけれど、そのからだの質感といったものは、何によって、あるいはどこから、形成され得るのか。さらに、その質感の変化をコントロールするために必要とされるものは、何か。

その答えの一つとなるものが、指先の感覚としてある。

指先は、一見末端として捉えられがちだが、実は違う。からだの末端として存在しているものは、皮膚であり、たとえば、からだの中心として考えられている丹田あたりであっても、身体外部に近い部分については、末端と捉えることが出来る。
さらには、からだを捉える時に、中心と末端とか、部分や総体というアンチノミー的な考え方も釈然とはしなくなる。中心は無数の末端によって、また、総体は部分の集合によって構成されている、一つのものであるのだから。

指先の表情や質感に拘り、未だ知ることのないそれらを引き出すことで、自身の踊りは大きく変容する。そして、指先(末端)をコントロールすることによって、からだ全体(総体)をコントロールすることが可能となる。からだは、一つのものであるのだから。

クラスでは、世界の(古典からなる)舞踊の手や指の型なども幾つか紹介し、各国の舞踊の身体を形成してきた、文化や風土、歴史背景などとの関わりに興味を向けるものとなった。そこは、非常に軽くでしたが。。。

指先は、顔と同じように無数の表情を持ち、絶えず変化し続けている。それは一つの意思、感情の表現器官としてあり、同時に現代人にとって特に重要な道具でもある。

指先は思考し、指先は発している。

私たちがそれを意識する、しないに関わらず。

 

空白

あなたがいない世界」公演を終えて数日が経った。

本番一週間ほど前あたりから、時間が経過する速度はここ数年で一番早く感じられたかも知れない。それは、カンパニー公演に11年ぶりに私自身が出演することに理由があるのか、それとも岡山から東京に戻ったことで、未だに都市の時間のスピードに着いて行けずにいるのか、あるいはただ歳をとっただけなのか、その理由は分からない。
何にせよ数日の間、体感としての一日は、数時間程度にしか感じられなかった。

そして、公演を終えた翌日から、その時間経過のスピードは少しずつ緩慢なものとなり、3日経った今朝あたりからは、体感時間と現実時間の差はほぼなくなったと言っていい。

その3日間は、次に向かう為の準備期間として、必要なものなのかも知れない。
3日間という、空白的な、時間。

新作の公演を終え、既にご存知のお方も多いとは思うけれど、1999年の結成当初より活動を共にしてきた今津雅晴が、今作をもって最後の出演となった。
「あなたがいない世界」という作品以前まで、ダンサーとしてそこ(カンパニーの舞台)にいた今津雅晴が、その作品以降は、そこにいない。不在の作品の完成が、新たな不在を生んだとも言える。が、彼自身の決断とその言葉には、私を説得させるだけの力と重さがあった。そしてそれはとても自然なことのように思えた。
説明するのはなかなかにして難しいのだけど、単純に方法論や関わり方といった表層部分が変化するだけで、根底部分の共有は変わらず、ある意味においては一つの目的に向かい続けるのだと言える。
このような視点と思考は、カンパニー独自のものとも言えるのかも知れない。

この場を借りて今津雅晴氏に伝えたい。

20年ありがとう。お疲れ様。

とは言え、やはり、心にぽっかりと穴は空くのです。
その空白は、一つの存在として、ずっとそこに、あり(続け)ます。

さて、
不在は、一旦ここで終わる。
ここから先は、存在に向かう。

途方途轍もなく、物質的な、からだへ。

 

道具

動くからだを見ている。
指先と瞬きと眼差しと頷き。

からだは時に雄弁に語りもするが、時には寡黙にその身を閉ざす。
閉ざされたからだは中心から末端への内圧が高まり、小さく震えている。
内圧が外圧を超えて、その圧力が外に抜けてしまう頃、からだは末端からゆっくりと語り出すだろう。
言語を獲得し始めた子供のように。
やがて、その言葉は力を帯びて、他者のからだに浸透する。
雄弁に、時に寡黙に。

からだによるそのような行為は繰り返される。
幾度も、幾度も。ずっと。

語るのはからだ。浸透するのもからだ。
それ自体が、私たちの根源的な道具である以上、からだとからだの隙間には、いかなる道具も必要とされない。

同時に、感覚はからだから切り離されるべきではない。

 

妥協

本日のリハーサルでも、不在について肌身にジリジリと感じる時間を過ごす。
ある限定された状況においての「いない」は、そのままイコール「待つ」という身体的状況を誘発する。そして、その状況においての不在は、不在であるものの存在そのものを、待つ者のからだに感じさせている。如何に、その存在が、大きいのかを。
それは「いない」ではなく、「いる」と同等なのだ。

そして、その存在が大きければ大きいほどに「待つ」という行為は、肌身に染みる。

あなたがいない世界」は不在の存在によって成立する世界であり、「いない」ものが「いる」世界だ。「いない」ものを起点とし、「いない」ものを含めた全ての存在を、肯定する世界とも言える。

存在を、肯定する。
不在を含めて。

メンバーは皆、限られた時間の中、その世界の構築にからだで向かっている。
時間は有限で、作品の質量に見合わないことの方が多い。そして、日々のリハーサルにおいて、今回出演するメンバーのうち、誰かがいる時には、他の誰かがいないという状況が続く。それはメンバー個々のスケジュールによるものだが、私はパズルのピースを嵌め込んで行く作業に追われる。それでも、時間はそれに追いついてはこない。
有限だからだ。

しかし、私は有限である物事に対し、妥協するつもりはない。

ダンサーの踊るからだも、まだ、一つも二つも先に伸びる筈だし、もっと内圧をかけられる筈だ。さらに時間を我が身のものとしてコントロールすることも可能だし、深く他者を侵食することも出来る筈だ。

妥協点とは、私にとっては事象の地平面のようなもので、それを受け入れてしまったら、あるいはそこを越えてしまったら、自らの行動原則を、自ら否定することになる。
それは、私が私をやめるということでもある。

そのような、作家の至極勝手な理由による頑なな考えは、時としてメンバーに対して無理強いをすることにもなりかねないのだが。
やはり、そこは、妥協できないのです。

本番まで、あと2日。
いないものへ向けて、妥協することなく。

からだから、世界を構築する。